#8 この世界のこの感覚に。
朝起きた瞬間、リンは自分の身体の違和感に気づく。
「あれっ……?」
いつも通りアラームを止めようと体を起こすと視界がぐわんと揺れたのだ。
ぼーっとする頭でもその原因ははっきり分かった。
「昨日のあれか……」
特に鍛えてもいない成人男性が土砂降りに打たれれば、熱が出るのも無理はない。
リンは何とか体を起こしてオーブに電話を掛けた。
〈はい、オーブです〉
「……すみません、オーブ先生。熱が38度以上あって、動けなくて。オーブ先生は大丈夫ですか?」
〈えぇまぁ。〉
「……ですよね」
〈僕よりクラスのことを考えないと。……申し訳ないですけど、僕はリン先生の代わりはできないですよ。〉
「とりあえず、生徒たちが教室についたときに僕に電話してもらってもいいですか?ジューク君とメイさんとも話をしてみます」
〈わかりました〉
◇
オーブとの電話が切れた後、すっかり寝落ちてしまっていたリンは再びなった携帯の着信音で目を覚ました。
「はい、……リンです」
〈リン先生?大丈夫?〉
それはメイの声だった。
「……ごめんね。昨日の雨で風邪ひいちゃって。みんなは大丈夫?」
〈ユナとモモ以外全員来てるよ。二人も外せない任務で出てるだけだし〉
「そっか……」
今にも消えそうなリンの声にジュークが答えた。
〈正直、僕たち先生が来ないとここにいる意味ない気がするんだけど〉
「え、……でもみんな僕が教室に居なくても班学習できてるし」
〈いくら監督者の命でこのクラスに通ってるって言ったって、勉強するためだけだったら俺とかアルとかはとっくに来なくなってるよ〉
「確かにそうかもしれないけど……」
高熱のリンには、ジュークにかけるそれ以上の言葉が思いつかなかった。
すると、オーブがこういった。
〈リン先生……生徒たちに任務行かせてもいいですか?〉
生徒に任務に行かせる、ということはそういう事になる。
リンは『はいどうぞ』と言うことはできなかった。
(この状態で車運転できないし、教壇に立ったところで力尽きるだけだしな……)
「……オーブ先生に任せます。」
〈わかりました。リン先生は明日来れそうですか?〉
「はい、絶対に治していくので」
リンはかすれた声で半ば食い気味にそういった。
「じゃあ、ちゃんと休んでください」
「じゃあね~先生。」
「お大事に」
オーブ、メイ、ジュークがそう言うとぷつっと通話が切れた。
(しょうがない……ことだけど)
リンはまた、彼らと自分の違いを感じざるを得なかった。
(オーブ先生は、生徒たちにとっては“先生”以前に“監督者”だもんな)
◇
Pi—n Po—n …… Pi—n Po—n……
今度はインターホンの音でリンは起こされる。
布団にくるまったまま、ふらついた足取りで玄関に向かいリンが扉を開けると、
そこには見たことのある女性と、少し隠れるようにその女性の後ろに立つ生徒の一人のユウキがいた。
「ユウキさんに……ロゼさん?」
それは、ハーフスター高校から戻った時に遭った監督者の一人のロゼだった。
「先生今日何か食べた?」
「……いえ、何も」
「でしょぉ~。ユウキちゃんも先生のために薬作ってきから」
「あ、そっか……」
女子生徒の一人のユウキは組織の化学班として毒殺、爆殺案件の重要人物だった。
「そっかって何よ!」
ユウキとロゼは状況が整理できてないリンをよそに、家に上がる。
「意外といいお家住んでるじゃない。リン先生はそこのソファにでも座ってユウキちゃんの薬飲みなさい。
私消化の良いモノ作ってあげるから」
リンは言われるがままリビング中央のソファに座る。
目の前に立つユウキは白い粉が入った小さなビニールの袋を差し出した。
「これ僕が飲むの?」
「そうだけど」
明らかに体調の悪い成人男性に女子高生が薬を勧めるという端から見たらよくわからない光景だ。
「ユウキちゃんが自分から薬作るって言いだしたんだから、リン先生はありがたく飲みなさい」
キッチンで料理中のローズがリンにそういうと、ユウキは分が悪そうに口をはさむ。
「ちょっとロぜ……!」
「みんな任務に出ちゃって暇だっただけなんだから。普通に売ってる風邪薬と同じだから飲みなさいよ」
リンは、まだ少し怖がりながらもユウキの薬を受けとってそれを飲んだ。
「……やっぱり任務に行ったんだ」
「みんながやるような任務はパッと行ってさっと片づけられるものも多いから」
「サイエンティストは時間を選ばない分、一度始めると長いのよね~。」
ロゼはそういいながらリンにおかゆの入った茶碗を渡した。
「ユウキちゃんはこっちね」
ユウキに渡されたのは鶏肉がたっぷり乗った食欲をそそる匂いのするどんぶりだ。
「やったー」
ロゼもリンとユウキの座るソファと並んでいた一人掛けのソファに座り二人を温かい目で見ている。
「リン先生、この子たちをハーフスター高校のスポーツフェスティバルに連れていくことにしたんでしょ」
「はい、そうなんです」
「スポーツフェスティバルなんて懐かしいわ~」
「ロゼさん、スポーツフェスティバルに参加したことあるんですか?」
リンはてっきり組織の関係者は学校の行事と縁の遠いところで育ったと思っていた。
ロゼは、実はね……と小声でリンに言う。
「私リン先生と同じなのよ。
殺されるか、組織のメンバーになるか選べって。
もう20年以上前の話だけどね。
私もリン先生と同じごく普通の一般人と同じ。だから私が面倒をみてる子は特に訓練をする必要がない子たち。メイちゃんとモモ君とユナ君はTOXICからの引き抜きだからであったころにはすぐに任務に出れる状態だったし」
「TOXIC?」
「リトルマーダーを保有している別の組織よ。
うちとはかなり性質が違うけどね」
「……と、いうと?」
「Raise Sir Flagではこの仕事の素質のない子供は勝手に去っていく、そして追わない。
TOXICは素質の無い子供でも組織の実験台になるか、使えるまで教育する。
素質のある子だって、本人の能力以上に強化させようとする。
だからうちのほうが力を発揮できる子どもを見つけると引き抜く。
まぁ、そんな子に現場で出会えるのも結構稀なんだけどね。
ユウキちゃんとアオイ君も似たような感じ」
「別の組織とかですか……?」
「ううん。……そうじゃないんだけど」
ロゼは言葉に詰まった。
「……!ごめんなさい、ぶしつけな事を」
リンが慌ててそういうと、ユウキはあっけらかんと
「私は……生まれ持った天才化学者ってところかな」
と、いった。
「…………!」
ユウキの負の感情を一切感じさせない言葉に、リンは不意を突かれる。
「私は親を毒殺した現場で組織の人間に拾われた。
アオイの百面相はドラックの売り子をしてる時に身に付けたんだって。
私もアオイも、組織が殺すはずだったやつを先に殺しちゃったところで拾われたってところかな。」
「そう……だったんだ」
どんな表情をしたらいいのかわからないリンをユウキは不思議そうに見た。
(人が死ぬことを、携帯の充電が切れる位に思っている子もいる……だったっけ)
ハーフスター高校の帰り、リブラに忠告されたことが頭によぎった。
「…………」
それでも、リンは次にかける言葉がわからなかった。
思わずおかゆの入ったどんぶりをテーブルに置いて立ち上がる。
「すみません、ロゼさん。これ冷蔵庫に入れておいてくれませんか?
……薬が効いてきたのか眠くて。」
「わかったわ。」
リンはそういってベッドルームに戻った。
◇
(これは慣れないな……。)
組織の人間が数人集まった時の、常人とは違う『生』の感覚。
それを聞くたびに、『こっちが、今リンのいる世界の普通』だということを思い知らされる。
ベッドに横になり、天井を見つめるリン。
トントントン、と扉を叩く音に続いてロゼの声がした。
「先生、入るわよ」
ロゼはベッドの横に置いてあるドレッサーの椅子に座る。
「この家の前の家主は女性だったみたいね。
……ユウキちゃんったら、食べ終わったらすぐ寝ちゃったの。」
そういって、まだ複雑な表情をしているリンを和ませた。
「……ごめんなさい」
「いいのよ。ユウキちゃんの場合、本当に何も気にしていないもの。
先生が気にしちゃダメ。」
本当に何も気にしていない、というロゼの言葉をリンはまだ信じきれていないようだった。
「ユウキちゃんと初めて会ったのなんて、私にとってはつい最近だからよく覚えてるわ。」
そんなリンにロゼは昔話を始める。
「組織の人間がユウキちゃんの事を拾った時、彼女のことをすごく褒めたそうよ。
まだ初等学校に通うような子供が化学を理解して親を殺すなんて、
そういう年齢の子たちなら盲目に親のことを愛してしまってもいいはずなのに。
当時のユウキちゃんの家庭環境を聞いていたけど、あのままだったらユウキちゃんが殺されていたかもしれない。……結局、ユウキちゃんに限らず、リトルマーダーとして生き残ってる子たちは頭がいいのよ。生きるために、何をしたらいいかがわかってしまうの。」
ロゼの言葉は、何十年も『この世界』で
ただその子どもたちの様子を見守ることだけをしてきた者の言葉だった。
「それに、ようやく自分の意思でやったことを心の底からほめてもらえたらそれは嬉しいわよ。
『これでいいんだ』と思って、自分の興味のある化学を存分に使える場と結果を出せば自分が“居てもいい場所”が組織にはあった。ユウキちゃんみたいな天から与えられた才能を持っているような子はどんどん組織に貢献して生活も豊かになる。
私も最初はこれで本当にいいのかわからなくて、自分をだましながらリトルマーダーの生活の面倒を見てたけど……。不思議なものね、だんだんこの世界が間違ってるのか自分が間違ってるのかわからなくなるものよ」
「この世界が間違ってるのか、自分が間違ってるのか……」
それはきっと、リンがまだ言葉にできていないような感情だった。
「そう。人殺しがいけない事なんて教えてもらえなくたってわかる。
でも“運が悪かった”っていうだけで、ここまでの能力のある子たちがなんで不幸な思いをしなきゃいけないんだろうって。
―――――先生も思うでしょ、この子たちだってちゃんと子供っぽいし可愛いのよ。」
リンは入学初日に体育館で絵具まみれになったときから
昨日の土砂降りの中のリレーまで、
初めての学校生活を楽しんでいた生徒たちの表情を思い出す。
あまりに身体能力が高くても、一緒に楽しんでいたのが『ただの友達』ではなくても、
それは確かに、リンのこれまでの数年間の教師生活を彩った“子供らしさ”であり“可愛さ”
と同じものだった。
ロゼは続ける。
「リン先生と同じ。
どうせ一度、理不尽に死んだ命なのよ。
この世界が正しくて、自分が間違っててもいい……。目の前の子どもたちが自分が不幸だと気づかないようにさせてあげたいっていうのが今の私の生きがいってところかしら。」
そういってロゼは立ち上がった。
「先生もだいぶ顔色良くなったし、私たちそろそろ帰るわね。」
部屋を出ようとするロゼを見て、リンは体を起こす。
「いいわよ先生。
……実はここの鍵は何かあった時のために監督者全員が持ってるのよ(笑)。
鍵なら自分で閉めるわ。」
ロゼはいたずらに笑った。
「早く治して、明日からまたあの子たちの面倒見てやって。」
「……はい」
少しだけ元気になったリンは、引きつってはいたものの笑顔でロゼを見送った。
『ユウキちゃん、帰るわよ~』とユウキを起こすロゼの声がリビングから聞こえる。
リンはまるで母親と娘のような二人の会話に、それがドアが閉まる音で途切れるまでずっと耳を澄ませていた。