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それでも私は屈しない  作者: めるかでぃあ
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第九話 波乱の予兆

 緊張に固まったサファイアがつかえつつもどうにか課題を突破し、私は水球を作るか作らないかのうちに「合格だとっとと行け」とシーアに手で払われ、規定時間よりもかなり早めに授業が終わった。

 廊下でサファイアに時計を見せてもらうと、寮に戻ると一息つく時間がない、といった程度の空き時間が出来ている。


「これからどうします?」


「次の授業の場所で待っていてもいいが……ああ、ちょっと待ってくれ」


 廊下が無人なことを確認し、疑問符を浮かべて首をかしげるサファイアに掌を見せて静止を促して、私は首元のリボンに手をかけ引き抜いた。


「ふ、え、アンジェラさん!? 何を!?」


「いい加減、胸元が暑苦しいんだ」


 サファイアに合わせてきちんとボタンを留めてリボンまでしていたが、ただでさえサイズの合わないブラジャーに寄せられた胸の谷間をさらに蒸らすことになってしまっているのだ。第一ボタンを開け襟を引いて風を送り込む。


「アンジェラさん、その、胸が、白いの、見えて――」


「気にするな。次の授業までには直すさ」


「気にします! って、第二ボタンはダメですー!」


 第一ボタンだけでは飽き足らずにその下に手をかけると、抱き付くような勢いで寄ってきたサファイアにぎゅっと手を握られた。



「ふにゅ?」



 小さな口から擬音をそのまま口に出したような声が上がる。押し止められた勢いで外れかけていた第二ボタンが完全に外れ、布地からはみ出た脂肪に二人の手が押し付けられている。火照った肌が外気に触れる僅かばかりの解放感に気が安らぐが、サファイアの顔は私の熱を吸い取ったかのように真っ赤に熟れていた。


「あ、あぁあぁあああああ――すみませんすみませんすみません!」


 何を謝っているのかは分からないが、吹き飛ぶような勢いでサファイアが離れる。私には懐いていると思ったが、人見知りのような娘だけに、顔が近いことに緊張したのだろうと解釈した。

 しかし、女の身体というのは不便なものだ。抱く分にはいいが、実際には脂肪が暑苦しい。あけられた窓から入り込む風を求めて窓辺に寄ろうとすると、強い力で肩を掴まれた。


「なんだ」


「暑いのは分かりますけど、せめて第二ボタンは締めてください……」


 はしたない、ということだろう。感情の高ぶりからか涙まで浮かべている。いつになく必死の懇願に、私は肩をすくめつつもボタンを留める。

 その時、開かれた窓から、風に乗って小さな旋律が流れてきた。


「なんだ?」


「……クラヴィアの音ですね。音楽室かな」


 私の幻聴ではない証拠に、サファイアも耳に手を当てて呟く。クラヴィアとは鍵盤を打ち込むことで音を鳴らす楽器。鍵盤の数にもよるが、低音から高音まで、非常に細かい音を出すことが出来る一人用の鍵盤楽器だ。


 序盤なのか、静かな旋律だった。だが、粒のそろった主旋律やそれを妨害することなく押し上げる対旋律が、確かな技量に裏付けされた演奏だと知らせてくる。一音一音をはっきりと打ち込み、しかしそれらが調和をもって世界観を紡ぎあげている。

 ゆっくりとした低音の曲調の中に混じる軽く叩かれる高音が、静かな森の中に聞こえる小鳥のさえずりを想起させる。単調な音の繰り返しが世界観を広げ、これから起こる変化の予兆を感じさせる。

 そこから、幕を開くように階名順に音の連鎖が響いた。それは物語の始まりを告げる音だ。

 主旋律が変貌した。風が流れる様な速度をもって軽快で澄んだ旋律は世界を前に進め、森を広げていく。一つの楽器から出ているとは思えないほど多彩に上下する音階がそれを為しているのだ。

 爽やかに軽快に、しかしどこか振り切ることのできない哀愁を引きずった曲だった。

 指で押して楽譜を再現するだけでは、その微細な感情を引き出すことはできない。

 高い音を早く、低い音をゆっくりと、もしくはその逆を組み合わせ、何度も絵を上書きするように自分の心象風景を再現していく。

 ふと、窓の外に広がる青空に小さな川のせせらぎを幻視した。川には枯葉が流れ、石を避けながらゆっくりと流れていく。

 支流から本流に向かうにつれて、加速する流れに乗って何枚もの枯葉が合わさり川を染めていく。

 そして今や曲は本流の激しい流れに乗り、跳ねるように音が踊り、どこまでが一つの音か分からないほどの速弾きとなっている。

 しかし、調和は乱れていない。全ての音が、目的をもって一斉にどこかに向かっている。

 私の心臓の鼓動すら、曲に乗せられて速まり、息をするのも忘れていた。音を拾うことだけに神経を集中し、組んだ腕の指先が高められていく曲調に乗って鍵盤をたたくように踊っている。指の震えは身体を伝わり、まるで操られるように足先が床を叩き、頭が揺れる。

 叩きつけるような流れに押された曲は、最後に滝から落ちる様な激しい音階の連続をもって、一気に切り上げられる。


 ふっと、空が戻ってきた。


 曲が終わったのだ。

 強張った全身が反動で弛緩して、不足した空気を肺に送り込む。

 楽曲には興味を持たなかったが、教会の讃美歌のように荘厳なものではなく、素朴な風景の移ろいを語るような曲は珍しい気がした。どんな人間が、そんな曲を弾いているのか、少し、気になった。

 時間にすれば、それほど長いものではなかっただろう。しかし、その短い間で、あの曲は私の手をどこか別の世界へと連れて行こうとしていた。あの曲に込められていた郷愁に引きずられたのだ。


「音楽室、か」


「行ってみます?」


 私の心を読んだようにサファイアが問いかけてくる。どこかから聞こえる音は、火薬が弾ける様な軽い拍手へと変わっていた。場所はそれほど遠くなさそうだ。

「こっちですよ」

 視線で肯定すると、散歩を待たされた犬のようにサファイアが私の手を引く。彼女の柔らかい手で握られても、あの衝動的な嫌悪感は襲ってこない。単に他人の手を握るという行為が身体を苛んでいるわけではないということだ。

 階段を下りる途中で、また旋律が流れてくる。今度は知っている曲だ。教会の聖歌として親しまれている曲だった。滑らかな音の響きは変わらないが、今度はどこか無機質だった。オルゴールが記憶した音を再生するように、正確だが感情に欠ける旋律だ。

 歩を進めるごとに、音量が大きくなっている。私のいた、丁度真下に部屋がある。戸は開け放されていた。その先は生徒の背が作る壁となっていた。誰もがクラヴィアの音色に聞きほれ、一点に視線を向けている。

 私や、さらに背の低いサファイアでは、演者が誰かは確認できない。かろうじて開かれた蓋と揺れる髪の端が見える程度だ。

 音楽室というだけあって音響には気を使われているようで、壁には音を吸収するための穴が開き、天上は緩い楕円となって耳に届く音量を適切なものへと柔らかく反射している。

 集団の端で壁に腕を組んで背中をあずける。サファイアも隣に、こちらは背をまっすぐに伸ばして両手を前に揃えて立っている。

 聞き覚えのある旋律は、美しいが面白みがない。次にどの音が鳴るのだったかと思い返したものと、全く同じ音が鳴っている。楽譜を読み上げる様な退屈な演奏だった。堅苦しく肩肘ばった聖歌としては正しい演奏だが、それなら自動演奏の魔術でも再現できる。

 最後まで聞き終えたところで、耳に残るもののないつまらない演奏だ。しかし、それでも鼓膜を割るような拍手が沸き起こった。サファイアも両手を打ち鳴らしている。

 演者が立ちあがり、その尊顔を晒す。動作に合わせて揺れる、纏められた長い金髪に見覚えがあった。ローリエ・イツァナギだ。

 その顔を見て、はっと制服のポケットに手をやった。そこには、昨日手渡されたハンカチが入っている。制服に入れたままだったが、一緒に選択されて戻ってきていたのだ。

 ローリエは優雅に一礼し、笑みを見せる。再度の拍手が巻き起こった。

 イツァナギ様、と敬意を込めた声が集団の前の方から飛んだ。それら一つ一つに笑みを返す顔は、彫刻のようにどこか無機質だ。


「サファイア」


「はい?」


 眼を横に向けて小声で呼びかけると、彼女は小首をかしげてこちらを見た。


「ここで私がハンカチを返しに行くと、どうなると思う」


「多分、すごく目立ちます。絶対にやめた方が良いです」


 真剣な瞳で言われ、私の身を案じていることが伝わってくる。彼女に問うまでもなく、そんな考えを実行しようとは思わないのだが。私の前で壁を作るのは男女の平民の制服だが、教室の座席と同じように貴族たちが最前列を固めているであろうことは容易に想像できた。それに割って入るつもりはない。


「あの、ローリエという少女。ずいぶんと人気があるようだな」


「人気というか――敬愛されてるというのが近いでしょうか」


 敬愛というのは、まさしく適切な表現のようだった。周囲の生徒たちの視線は、恋慕や応援のような気軽なものではなく、触れがたいものに対する畏敬の念が籠められている。


「貴族っていうのは、ああいう人のことをいうんでしょうね。平民とは違う血が流れていそう」


「馬鹿を言え。貴族だろうと血は赤い」


「た、例えですよ。なんていうか、存在感が違うっていうか――私達じゃ、近づくことも出来ない雰囲気。怖くないのに、畏れ多いんです」


 エミリオのような、傲慢さによる暴力や威圧感ではない。平民の上に立つべき気風というものを纏っているのだ。どこか人間離れした存在感が、無機質さを覚えさせるのかもしれない。

 しかし、聖歌の前の演奏。あれもローリエによるものだったのだろうか。機械じみた冷たさと、あの胸が詰まるような感情を込めた曲調は全くの別物だ。どちらもローリエによるものだとしたら、どちらが本当の彼女なのだろうか。


「あ……」


 壇上から、小さく声が落ちる。私の耳が、他の生徒と同じようにそのつぶやきを拾い上げた。気になって瞳を壇上にくれた。

 視線が合った。

 それは一瞬のことだったが、両者の瞳孔は確かに直線で結ばれていた。私が瞳を動かしたことによって視線が合ったということは、向こうはその前から私を見ていたということだ。昨日の今日で、顔を覚えられていたのかもしれない。


「いま、イツァナギ様がアンジェラさんの方を向いたような」


「気のせいだ」


 サファイアが放った一言で周囲がざわめく。とっさに否定して、壁から背を離した。


「あの子、例の……」


「イツァナギ様が、まさか気にかけて」


「そんな馬鹿な」


 耳障りなささやきを振り切るように、早足で部屋を出る。ハンカチはいずれ返すつもりだが、この場ではない。背後から雑多なものとは気配の違う視線を感じる。

 気のせいだと言い聞かせた。





「あの子さぁ……ちょっと、感じ悪いよね」



次回、6月16日に投稿予定

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