最終話
ねえ、貴方は私を愛してる?
「愛してるよ、可愛いリュシー」
窓の外で美しい花を咲かせている樹々が、彼の言葉を受け取るかのようにその白い花弁を艶やかに開かせていく。
愛しているの、愛されているの。
でもそれは、私なの?
それとも私を通して、この体の本当の持ち主を夢見ているの?
私を愛して。
この体で息づく私を。
ああ、でも貴方の瞳はいつも私を素通りして、私の中にいるはずもない彼女を見つけようとしている。
愛しているのに。
貴方を愛するようになったのに。
―――――貴方は私を見ようともしない。
「リュシー?どうしたんだい」
「ねえ、記憶を失う前の私と今の私なら、どちらの私が貴方に相応しい?」
「何を急に言うんだい。比べるようなことじゃないよ」
「でも、前の私と今の私では性格もしゃべり方も好みも何もかも違うでしょう?だから貴方はどちらの私が好きなのかなって」
その言葉にジョスランの瞳が揺れ動く。
やはりそうなのね。
私ではなく、私の体の持ち主であったリュシーという人を私を通して探しているのね。
そうしてリュシリエンヌは最初で最後の、勝敗が決まっているだろう賭けに出た。
「ねえ、ジョスラン。私を愛しているのなら、私を貴方のその手で殺して?」
リュシリエンヌはジョスランの女とも見紛う手に自分の手を添えて、そのまま首元にあてがわせた。
あとはこの指に力を入れてくれればいい。
「何、を。馬鹿なことをいうんじゃない」
「それが駄目なら私をここから出して」
「何を言ってるんだい?歩けない君は車椅子がなければ外に出ることも叶わない。まだまだ筋力が落ちているから一人で車椅子すら操れないじゃないか。それを……ここから出してと言われても、その願いを聞き届けられると思う方が可笑しいよ」
「そんなことはないわ。杖があれば立つこともできるんですもの、すぐに歩けるようもなるでしょう?歩けたら、外に出れたら行きたいところがあるの。以前に連れて行ってもらえたあの白い花の咲く樹の下に、もう一度行ってみたいの。いいかしら?」
「駄目だ。いくら立つことができるからと言って歩くことなどそんなに簡単にはできないし、もし仮に歩けたとしても歩き続けることがどれほど体力を消耗するか分かっていない。太陽の光だって浴び続ければ疲れるものだ。だけど外に出たい気持ちはわかるから、しばらくは窓のそばで日差しになれるところからはじめてはどうかな」
そうだそれがいいと、ジョスランは早速リュシリエンヌを載せた車椅子を窓辺まで動かした。
窓からは心地よい風がリュシリエンヌの柔らかな髪をなぶっていく。
「少し風が吹いてきたね、寒くはないかい?」
ジョスランからは相変わらず労わりの言葉をかけてもらえるが、リュシリエンヌにはそれがもうとてつもなく辛かった。
急に黙り込んだリュシリエンヌを怪訝に思いながらも、きっと風が冷たかったせいだろうとジョスランはひざ掛けを探す。
いつもならば椅子に掛けてあるはずのひざ掛けはなぜか見当たらず、備え付けのクローゼットの中のストックを取りに行こうと車輪止めのレバーを引いて車椅子を固定した。
これでリュシリエンヌが体力を使い果たして急に倒れても、車椅子からは落ちることはないだろう。
ジョスランは自分の仕事に満足をして、ひざ掛けを取り出すために部屋の反対側にあるクローゼットの扉を開けた。
「ジョスラン」
珍しく大声を出してリュシリエンヌがジョスランを呼ぶ。
慌てた風でも困った風でも怒った風でもない、淡々とした声で。
普段にない声色で呼ばれたせいか、なにか悪い予感に動悸が激しくなり、慌ててジョスランはリュシリエンヌを探した。
――――――そう、探したのだ。
窓の横に止めたはずの車椅子に、リュシリエンヌはいるのではなかったか。
ついさきほどそこに車椅子を止めて数分しかたっていないのに、もうリュシリエンヌは座っていない。
歩けるはずのないリュシリエンヌがどうしていなくなるというのか。
まさか、椅子から滑り落ちたのか?
慌てて視線を下げても、リュシリエンヌはそこにもいない。
「ジョスラン」
いや、本当はわかっていた。
リュシリエンヌは車椅子から数歩前を、杖も使わず一人で立っていることを。
「……リュシー。本当に?」
歩けた、ということか。
いつの間に歩くことができるようになったのか。
喜ばしい出来事のはずが、ジョスランには不愉快だった。
逃げ出さないように歩けなくしていたというのに。
このままでは―――――――。
ジョスランは慌てて駆け寄ろうとした。
歩けたとしてもまだ歩き始めたばかりの赤子のようなものだ、直ぐに足が震えだして崩れるかわかったものではない。
放り投げられたひざ掛けが、ゆっくりと宙を舞う。
「リュシー!」
「ねえ、ジョスラン。私をどうして殺してくれないの?」
そうすれば、貴方は私という存在を覚えてくれるでしょう?
他のリュシーとは違う、私だけをその記憶にとどめておいてくれるでしょう?
だから殺してほしかった。
貴方の心に覚えてもらうために、貴方の魂に刻み込めるように。
でもあなたは私を殺してくれない。
「だから、私は私を殺すわ」
「何を馬鹿なことを!リュシーが死ぬことなんて許さない!」
ジョスランが怒りを露わに叫んだその瞬間、リュシリエンヌはくるりと体の向きを変えて、ジョスランが一瞬見惚れて動きを止めるほどの鮮やかな笑みを放った。
「さようなら、愛しい貴方」
微かに震える声を最後に、ジョスランだけいる世界から飛び立っていった。
「ああ、今回も失敗か」
リュシリエンヌが飛び降りた窓に近寄って下を覗き込むと、あらぬ方向に向きを変えた彼女の小さな頭部と四肢が、そして地面にゆっくりと広がる血が、彼女がすでにこの世界から逃れたことを物語る。
ジョスランはその無残な姿を一瞥すると悲しげに、けれども小さなイラつきを見せてため息をついた。
「どうしてなんだろうね、リュシー? 愛おしい君を何人と作ってきたけれど、どうしてもオリジナルの君に成長してくれないんだよ。今回はもう少しで君を手に入れることができるような気がしていたのに、やっぱり私の手を離れていく。あれほど愛し合ったというのに、どうして私の元にもどってきてくれないのかな」
もはや肉塊と成り果てたリュシリエンヌに、ジョスランの興味は急速に萎れていく。
「やはりリュシーの記憶をある程度抽入しないと本人であることを拒むのか……だが今までリュシーの記憶をそのまま取り入れさせた個体は気が狂うかもっと早くに自殺した。№9はその点、肉体関係まで持ち込めたのだからある程度の記憶の改ざんは必要だということか。№10は培養器で育成中だというのに随分と私に懐いている……まるで以前の№9を見ているようだ。とすればまた№9と同じ道を辿ってしまう可能性もあるということか。ふむ。肉体関係は必要だが、欲しいのはリュシー本人であってそれ以外のものであってはならない。
そういうことだろう?」
『もちろんだ』
診療室の最奥に設置されている冷凍保存カプセルから、当然とばかりの声が聞こえたような気がした。
ざしゅ、ざしゅと土を掘る。
慣れた手つきで掘り進むと、傍らに置いてあった重そうな麻袋を丁寧な手つきで穴の中に置いていく。
ざ、ざ、ざ。
その袋の上にある程度の土を被せると、今度は樹の苗を植えこむ。
ぱん、ぱん、ぱん。
土を均して水をかける。
単純な作業をゆっくりと時間をかけて進めていく。
やあ、上手く植えられた。
ジョスランは、自分が植えたばかりの若枝にそっとキスをする。
「おやすみ、№9。この場所でゆっくりと眠るといい。大丈夫、今度こそ君が君になれるように新しい体はちゃんと用意してあるよ。だからゆっくりとお休み。この場所で、横で並んで眠る君たちと一緒に今度こそ君に会えるように祈っておいてくれないか」
白い花々は呼応するように艶やかに咲き乱れた。