第七話
日常が始まる。
何事もなかったように。
リュシリエンヌは歩けない。歩けないから診察室などいくことはできない。だからもちろん中のものを見ることはないし、水槽の中の少女を識ることもない。
もちろん、自分の過去を思い出すこともない。
遠い昔の彼を愛していることも、ジョスランを愛せなかったことも何も覚えてはいない。
ただただ、夫であるジョスランを愛する女なだけだ。
「愛しているの、ジョスラン」
「ほんとうかい。じゃあその証拠を見せて」
精一杯の告白は爽やかな笑顔で返されて、二人は本当の夫婦となった。
体力のないリュシリエンヌを気遣う優しい夫だった。
けれど愛し合う中、呼んでくれた名は「リュシリエンヌ」ではなく「リュシー」だった。
ああそうだった、彼は白い花の樹だけではなく、私の中に眠る以前の人格も愛しているのだったわ。
強烈な睡魔に意識を攫われつつも、愛する人の腕の中で悲しみに打ち震えた。
リュシリエンヌは自分の認識がおかしいことに気が付かない。
リュシリエンヌは記憶を取り戻したはずだった。
水槽の中で育まれた世界はたしかに本物で、あの感情も本物で、それを踏まえての今がある。
その中ではリュシリエンヌがリュシーと呼ばれたことも、ジョスランと夫婦だったことも一緒に暮らしたことも、なにもない。
そのことに気が付いたのは翌朝の、傍らに温もりのないベッドの中でだった。
おかしい。
全ての記憶が戻ったわけではない、ということなの?
リュシーと呼ばれるたびに胸がきゅっと痛くなる。
そんな人、私の中にはいない。
けれどもジョスランの中には存在していて、リュシリエンヌにその人を見出そうとする。
見つけらないと分かると窓の外の樹を哀しげに見る。
おかしい。
そんな人、いない。
記憶はきちんと戻ったはずだ。
リュシーであったことなど一度もない。
リュシリエンヌはジョスランが街に出かける日を待って、過去を探ろうと診察室に向かった。
足を踏み入れたのは初めてのことだった。
なにせこの部屋にいた記憶の最後はまだ水槽の中だったからだ。
ケーブルの隙間に足の踏み場を見つけて、一歩ずつ着実に進む。
部屋は昼夜を分けるように電灯が灯る。
今は昼の時間、手元は明るい。
ジョスランがどうやってこの機械たちを作動させていたか記憶を掘り起こしてまねる。
意外と覚えているものね、と目の前に現れた表示を読み解いていく作業を淡々とこなしていく。
巨大な筒形の水槽はできるだけ視界に入れたくなかったが、他の装置を調べてもこれといって手ごたえがなかったため、いやいや水槽の前に立って画面起動をしようと手をかざすと、水槽の中にいた人形たちが一斉にリュシリエンヌを見た。
ぞわ、と背中に虫が這いあがってくる感覚がリュシリエンヌを襲う。
たしかにリュシリエンヌはこの水槽の住人だった。
けれどもその時はリュシリエンヌ一人だけではなかったか。
年齢の違う同じ顔の少女たちが何人も作られてなどいなかったはず。
そして、一番はじの水槽の中では、遠い記憶の先にいた、あの人に引き合わされた当時のまだ幼いジョスランとそっくりの少年がいる、なんて醜悪なこともなかった、はず。
リュシリエンヌは彼、彼女たちから凝視されるなか、目を背けることもできずに呆然としながらも手を動かしはじめた。
ぎこちなかったはずの指の動きは滑らかにキーボードの上を滑り、信じられない速さで文字を打ち込んでいく。
目の前で表示される文字を忙しなく追い、情報を読み取って閉じていく。
画面を閉じる際に観察履歴を残さないようにすることも忘れない。
いつ得た知識かわからないが、脳が、指が勝手に動く。
早く、早く終わらなければ。
焦る心がミスを呼び、一瞬手が止まったその時、くすくすと笑い声が聞こえたような気がした。
馬鹿なことを、最後の悪あがきをして、と誰かが口を動かしている。
出来そこないのくせに、と口を動かしたのはリュシリエンヌを嘲笑した少女だ。
記憶なしがなぜその場にいることができるの、とも。
仕方ないさ、それがあの人の望みだったから。
そう口を動かしたのはジョスランそっくりの少年だ。
私はどうかと思うけれどと付け加えることを忘れずに。
筒の間には距離があり、中には液体が入っている。
どう考えても声など出しようもなく、またお互いの声を聴けるはずもない環境下のはずだとういのに。
呼吸を合わせたように紡がれる嘲笑が、蔑みを含んだ八つの瞳がリュシリエンヌを攻撃する。
初めて味わう底知れない恐怖に思考が止まっていたリュシリエンヌだったが、やがてゆっくりと指を動かし、次第に速度を速め、画面を立ち上げては閉じていく。
そして最後の一つを閉じたと同時にブゥンと起動が停止した音が室内に響き渡り、リュシリエンヌを凝視する彼らから逃れることを許した。
声はもう届かない。
リュシリエンヌは急いで他の装置の間を回り、手際よく履歴を消していく。
突き刺さる視線の数にくじけそうになりながらも最後の一台をシャットダウンさせることができた。
そして彼らから逃れるように部屋を後にした。