第五話
「ああ、もう駄目。……いいえ、あと少し」
気を抜けば崩れ落ちそうになる弱った足腰と萎えそうになる気持ちを奮い立たせて、リュシリエンヌは薄暗く長い廊下を壁伝いに歩いていた。
ジョスランは献身的な夫で、筋力が萎えたリュシリエンヌの介護をすることも、強張らないように手足を動かす手助けも率先して行ってくれたが、杖さえあれば立ち上がれるようになったというのに歩く訓練だけはさせようとはしなかった。
車椅子があれば屋敷の中のどこへでも行くことができるが、車椅子はジョスランが部屋にやってくるときに押してはくるものの、退出するときにいつも持って帰っていく。
どれほどリュシリエンヌが車椅子を置いていってほしいと強請っても、危ないよと諭す姿勢を見せながらも頑なに拒み続けた。
体に力がみなぎりはじめると部屋の中さえ自由に動くことのできない現状に不満を抱き始めたリュシリエンヌはその小さな頭で考えた。
歩けるようになればいい。
ジョスランの手助けがなくても歩く練習くらい自分でできる。
歩けるようになったらジョスランの仕事部屋まで行ってあっと驚かせよう。
そうしてリュシリエンヌはジョスランの目を盗んで歩く練習に励むようになった。
はじめはベッドから数歩先にある椅子まで。
次に窓、その次は扉。
危なかしげな足取りだが着実に歩行距離を延ばすことができるようになると、今度は休む間を詰めて歩き続けるように努力した。
そしてとうとう部屋の中を十往復できるようになったとき、リュシリエンヌは予てより切望していた扉の向こう側に足を向けることにした。
目指すは医者として働くジョスランのいる部屋だ。
昼食を終えたジョスランがひと仕事してくるとリュシリエンヌの前から去って数刻、ちょうど休憩をはさむころ合いだろうとあたりを付けてリュシリエンヌは行動に移した。
扉を開けて、廊下をただ歩く。
たったそれだけのことが、リュシリエンヌには冒険だった。
車椅子とは目線の高さが違う。
轍にそった絨毯の擦り切れ具合が愛おしい。
屋敷の玄関近くに設けられた診察室まで、リュシリエンヌは逸る心を押さえて丁寧に足を運んだ。
薄暗い廊下に薄く開いた扉から洩れる一筋の灯が見える。
ジョスランは間違いなく診察室にいるのだろう。
近づくにつれ、ぼそぼそとした話し声も聞こえてくる。
だが、何かがおかしい。
耳を澄まして聞いてみると、その話し声は誰かとジョスランが話し合っているのではなく、ジョスランが一人で誰かに語り掛けているだけの独り言のようなのだ。
いったい誰に、と考える間もなく、リュシリエンヌは部屋の前までやってきた。
もしかすると患者が眠っているのかもしれない。
起こさないように語っている、それとも仕事中に独り言をいう癖があるだけかも。
リュシリエンヌは扉の隙間に手を差し入れると室内を確認するように少しだけ広げた。
そして、一生の後悔をする。
診療室であるはずの部屋の中は目も眩むほどの光で埋め尽くされていた。
部屋には何かの液体を満たした巨大な透明の筒が部屋の中心に何本も連なって並んでいる。
こぽこぽと珈琲を淹れるときに聞くような音をたてているのは、透明の筒の下から上がる気泡のせいだろう。
それ以外にもブーンと耳障りな、けれども聞き慣れたような不思議な音が部屋を支配している。
壁際には備え付けられた棚にに銀や白の奇妙な形をした箱が所狭しと置かれていて、そこかしこの箱からは以前ジョスランと一緒に本で見たクリスマスツリーのきらきらと輝く電飾のような光が忙しなげに瞬いている。
違う壁の戸棚には大量の茶色のガラス瓶がラベル分けして並べられ、乳泊の鉢が今から料理でもするかのように積み重ねられていた。
足元は大小様々なケーブルが蛇のようにとぐろを巻き、うねりを見せ、床を覆い尽している。
その中を真っ白い服に着替えているジョスランが慣れた足取りで歩きまわり、時折手をぴんと立ちあげて指揮者のように腕を払う。
空中にピアノの鍵盤があるのか、指をかたかたと動かして音楽を奏でているようにも見える。
そして一通り作業が終われば、目を向けるのは部屋の中心である透明の筒。
吸い寄せらるというのはこういうことを言うのだろう。
ジョスランは魅入られたように筒まで歩を進め、両手を広げて愛おしそうに筒を抱きしめた。
すると筒の中の液体がブクブクと激しい泡立ちを見せ、中からゆっくりと何かが現れた。
ひ、と悲鳴が漏れなかったのはまさに僥倖といえよう。
泡の中から現れたのは、筒の中で揺らめく長い栗色の髪、細く伸びやかな四肢、うっすらとまろみを帯び始めた胸、そして表情がごっそりと抜け落ちた人形のような顔。
少女、だ。
少女が筒の中で囚われていた。
どこかで会ったことが、ある……?
ずきんっと頭が痛むその時まで、リュシリエンヌは知らずに少女を凝視していた。
扉の隙間らかじっと見つめる気配に気付いたのか、少女は透明な瞳だけをゆっくりと動かしてリュシリエンヌを見つめ返す。
その瞬間、人形のようであった少女の瞳に生気が宿り、扉の陰に潜むリュシリエンヌをあざ笑うかのように口端を少し上げた。
それも一瞬後にはまた無機質の人形に戻り、筒を抱きしめて愛を囁き続けるジョスランを見下ろすだけとなった。
リュシリエンヌはどうやって部屋に戻ったのか憶えていなかった。
足ががくがくと震えているのは、疲れのせいだけでは決してない。
倒れ込むようにベッド座りこむ頃には、あの時から始まった頭痛が耐えられないほど酷くなっていた。
痛い。
苦しい。
その感情だけがリュシリエンヌを支配している。
とめどなく流れる涙は何のためか、考えることを拒否している。
思い出しては駄目。
あの部屋のすべてのものを思い出しては駄目。
さもないと……。
がんっと頭を殴られたような痛みがリュシリエンヌを襲った。
悶えることも寝返ることも許さない今まで味わったことのない痛みはリュシリエンヌを深い闇の底へと誘っていく。
この痛みから逃れられるのであれば。
リュシリエンヌは喜んで意識を手放した。