二十八 橋場家本丸①
橋場の本宅に山口のパトカーは近づけなかった。
既に本庁の渋谷警察によって橋場家は守られ、警察官の山口でさえ検問を受ける有様だ。
そして、当り前だが、神奈川県警は帰れ、とまで言われてしまったのだ。
「どうしましょう。」
「うーん。どうしようね。実はさ、僕は神奈川の本部さんから帰還命令もあったのね。」
僕は運転途中に山口が無線の音声を急に大きくした数秒後に音声を切り、耳元にインカムのイヤホンを差し込んでいた事を思い出していた。
無線の言葉は暗号で僕には理解しがたいが、山口が大きく吐息を吐き出すさまに、僕はどきりと脅えたほどだ。
神奈川で大きな事件でも起きたのだろうか。
それを起こさせないために、髙が仕掛けたあの罠だ。
あの少年がサプライズパーティの出席者も火達磨にするつもりでいるはずだと髙は言い、そこでわざと計画が練りやすそうな舞台を僕が選んで用意したのである。
「どうして戻らなかったの?」
「君が行かなければ橋場さん家が危険なんでしょう。僕はクロトを信じるからね。」
僕ににんまりと笑った顔は彼のいつものスマイルマークのお面顔で、でも僕には彼が、僕を信じていないのに、信じている、という嘘をついているようには見えなかった。
それよりも今の山口の顔が、僕が相談を持ち掛けた時の髙の顔付きに似ていると背筋がぞくりとしたくらいだ。
「それで、クロトはどうする?戻る?このまま進む?」
進むにはと前方を見ると、山口のパトカーを止めるべく本庁の制服警官と刑事らしきスーツ姿が立っている。
こんな状態でも僕が進むと答えれば山口はアクセルを踏むのかもしれないと思い立ち、怖々と彼を見返して見つめれば、彼は僕の選択に任せるという顔で微笑んでいた。
「僕に全部任せてくれるのですね。」
「助手席に乗る君は相棒でしょう。」
「ありがとうございます。もう一度スマートフォンを貸してください。僕が道を開きます。その力がまだ僕にあれば、ですけれど。」
スマートフォンはすんなりと僕に手渡され、僕は覚えている懐かしい番号を入力した。
僕が「記憶喪失」になった後も変わらず接してくれた人でもあるが、そんな人だからこそ嫌われたくないという卑怯な考えで徐々に疎遠にしてしまった大好きな人である。
何度かコールが鳴った後、懐かしい声が電話に応答した。
「君は誰かな。」
懐かしさで胸がいっぱいになり、僕は声が出なかった。
数秒の無言のせいで、電話の向こうのもしもしが固い声に変わり、応答しないこちらを不審がり始めた。
「クロト、無理だったらいいよ。突破は僕が何とかしよう。」
「くろと?玄人なのか?そこに玄人がいるのか。」
山口の呼びかけが向こうに聞こえたらしく、彼の驚きと暖かく変化した声に僕は再び声を失い、けれど、電話の向こうは「もしもーし」とユーモラスな喋り方に変わってしまって、僕を必死に呼び寄せようとしてくれている。
武本の孝彦によく似て平均身長よりも小柄だが、角ばった筋肉質の体に四角く筋張った強面の顔を持つ、温かく優しい男が僕に腕を広げている映像が甦った。
幼い僕は彼の腕に何のためらいもなく走っていく。
「うふ、ふ。」
「玄人?」
涙が零れていたとしても、声が戻れば喋るだけだ。
「ご、ご無沙汰しておりました。武本の玄人です。お爺ちゃんにどうしても会って伝えたいことがあるから、僕の乗っている神奈川県警のパトカーを入れてください。」
彼は何のためらいもなくいいよと快く了承してくれ、僕はスマートフォンを崇めるようにしてから通話を切り、ただし、長年の習慣から着信履歴の消去をしてからスマートフォンを山口に差し出した。
「ありがとうございましたって、えと、山口さん?」
山口は窓を開けて外の警官と話し中であったのだ。
何のやり取りがあったのかわからないが、外の警官達から指示を聞いていた山口が窓を戻して運転席で姿勢を整えた途端に、僕達のパトカーの前の人だかりが蜘蛛の子を蹴散らすようにさっと消えて道を開けたのである。
ハンドルをぎゅうっと握ると、山口はニッと顔を歪めて再びエンジンをかけた。
猫が笑ったようないつものスマイルマーク。
「おもしろい。おもしろいよ、クロト。」
僕達の前には制服警官で出来た壁を持つ道が開いており、僕達はゆっくりと橋場の本邸まで進んでいった。
突き当たりの大きな門がゆっくりと開くと、一台の車がそこから門外へと移動した。
僕らのパトカーはその車の代りに中に進入したが、玄関前の駐車場に空いた場所に停めさせては貰えずに左へ行けと言う合図を受けた。
「左って、え?そこは。」




