五 僕の知っている事、皆が知っていた事、その齟齬③
「それでは、割烹花房。」
期待していた坂下の答えのそれに、僕は首が折れる勢いでがくりと頭を下げてしまった。楊の言う通りに坂下は普通の人なのかもしれない。
「あ、うそうそ。待って、もうちょっと考えるから。」
「いえ。いいんです。皆さんそうおっしゃるんです。僕に負担をかけない様にって。」
「え、負担がかからないって。ちょっと玄人君。京都の本店じゃなくて赤坂のお店でさえ予約が二年先だって聞いているよ。一見さんお断りの。」
「でも、お茶だけなら馨お爺ちゃんがいつでもいいよって。」
「ちょっと待て。我が家に時々残り物だと届くのは花房の飯か。」
「まだ気づいていなかったんですか、あなたは。でも、そんなことはどうでもいいです。花房は嫌なの?お金がかかるなら別にそこじゃなくていいからね。」
「違うの。でも、僕は一度くらい自分でお茶会を開催してみたかったから。花房だと馨お爺ちゃんが全部やっちゃう。お紅茶だけの筈が、いつのまにか懐石になって、最後にお爺ちゃんがお抹茶を立てちゃうの。お爺ちゃんの会になっちゃう。」
「あら、それって金を出しても体験できない伝説の花房スペシャルじゃないの。」
僕は葉子の言葉に、今までの会員もそれ目当てだったのかと、どうりで皆迷わず花房だと答えた筈だと、テーブルに頭をぶつける勢いでがっくりとした。
そんな僕を支えてくれたのは、やはり良純和尚で、やはり食い意地の張っている彼は、支えながらも僕の耳元に欲を囁くのを忘れていない。
「絶対に俺も招待しろ。」
だが、なんと、そんな欲深和尚と違い、会員三十八番は人の心を持っていた。
「じゃ、じゃあ、花房は、止め。君がお茶会を開催できる場所を教えてくれるかな?どこの会場が君が使える、ば、場所なのかな?は、花房を抜けてね。」
僕は嬉しさに良純和尚を振り払い、身を起こして隣の坂下に振り返った。
「この厚顔に騙されるな、クロ!」
「坂下さんは厚顔でなく好漢です。」
「いいじゃないの。どちらも坂下なんだから。」
「葉子さん!」
「あぁ、坂下さん。えぇと、神奈川だったら由紀子伯母さんの家と橋場建設のビルにご招待できます。東京だったら橋場の本丸にある能舞台のある客間、あと、お、お母さんのお祖父ちゃんのお店。し、白波の銀座にある本社ビルにある貴賓室。あぁ、やっぱりだめ。僕は皆と疎遠になってしまったから。やっぱりお願いできないかも。」
「玄人君、島田正太郎さんは?」
「あぁ、お爺ちゃんのホテルとお船ね。ホテルは赤坂も横浜もフレンチシェフが面倒だし、お船に乗ると広子お婆ちゃんが面倒だからいや。」
「え?」
「広子おばあちゃん?」
僕は葉子と坂下が同時に驚きの声を上げるのを少々訝しく感じながらも、彼らが知っているはずと自分に言い聞かせながら、目が三角になって、知らねぇよ!の顔をしている良純和尚のために捕捉を付け加えてみた。
「お祖母ちゃんのお姉さんが広子お婆ちゃん。馨お爺ちゃんはお祖母ちゃんのお兄さん。坂下さんは花房を知っているんですよね。」
「いや、知っているけど、え?君のお祖母ちゃんが、花房四兄弟の末の咲子さん?花房っていえば日本の胃袋を握っている財閥さんだよね。え、君はそんな直系だったの。そうか、それで馨さんが直々に出てくるのか。」
「玄人!あんたのばあちゃんが咲子さんだったの!」
え?葉子まで知らなかった?
なんとどうやら坂下は僕にカマをかけていただけらしいと、僕は厚顔な彼に騙されたのかと恐慌をきたして良純和尚を振り返ったが、僕が助けを求めた筈の彼は自分の口を押えて「しまった。」の顔をしており、あからさまに僕から目を逸らしている。
しまった。
良純和尚の「馨って何者」の質問ぐらい答えていれば良かった。
良純和尚が坂下に「馨」の名前を漏らしたのだろう。
好奇心で死ぬネコか、この人は。
「坂下さんは知っていて尋ねたんじゃなかったのか!あぁ!しまった!」
「え、ごめん玄人君。どうしたの?俺が何かした?」
「おばあちゃんが花房咲子だってばらしたら僕は殺されます。あぁ、しまった。坂下さん、じゃあ、割烹花房で!」
「やだ。」
「え?」
「俺は君がお茶会を開ける場所をもうすこし考えていいかな。お店屋さんよりも、君の主催のお茶会の方が楽しそうだからね。一番最後の会員が、会長の一番最初のおもてなしを受けるなんて、大特典だと思わないかい?」
僕は坂下のやさしさに嬉しくて、彼の顔をまじまじと見つめてしまった。
まじまじと見るなんて失礼なのに、坂下は僕に安心だけを与える笑顔を返してくれた。
こんな素敵な人ならば、僕は彼をご招待するお茶会のために最高のお持て成しをしなければ。そうだ、最高の茶葉を用意し、あの素晴らしい茶器を引き出すのだ。
引き出す?どこから?
武本の事務所のある東京倉庫は売り物ばかりだったはず。
当主としてそれは使えない。
でも、僕専用のブルーグリーンの帯に金色のラインが入った茶器があったはず。
「お母さんに捨てられた?違うあれは武本の家宝の一つと決めたから、絶対に捨てられない場所に隠してあるはず。えっと、僕はどこにあれを。」
「玄人君?」
「クロ、どうした?」
「しっ。黙って。」
「え。クロ?」
僕がソファに背中をどっしりと預けて、目を瞑って天井に顔を向けた行為に驚いたのだろう。
でも、僕はあれを思い出さなければいけない。
あれはどこに片付けたのだろうと。
なんだか今すぐに思い出せと、僕の中も叫んでいるような焦燥感も胸に湧いているのだ。




