番外編 秘密③
ガッシャーン
手から滑り落ちたお皿は、思いの外大きな音をたてて割れた。
「柚葉ちゃん! 大丈夫? 怪我はないかい?」 慌ててしゃがみこんで欠片を拾っていると、善太郎が柚葉の肩に手をおいた。
「柚葉ちゃん、ここはいいから、奥で休んでな。顔色が悪いよ」
柚葉は何度もごめんなさいを繰り返しながら、星霜軒の奥の階段から二階に上がった。
具合が悪い訳じゃないけど、少し目眩がする。 星霜軒の二階は簡単な居住スペースになっていて、善太郎が仕込みの間の仮眠に使ったり、バイトの休憩所として使われたりしている。かつて柚葉はここから短大に通っていた。
階段を上がり、奥の畳の間にぺたりと座り込む。
グラス一個、小皿二枚、湯飲み一個。柚葉が今日割ってしまったものだ。午前中の弁当販売では、おつりを間違えるし、箸を渡し忘れるし……。惨憺たる有様。
私ってば、何やってるの。動揺しすぎだ。
元はといえば、私が陸也さんに、昨日のことを何も訊けなかったせい。聞いたら、陸也さんとの関係が変わってしまうような気がして怖かった。本当はすごく気になっているくせに。不安で仕方ないくせに。何も訊けなかった。その結果の、この動揺ぶり。
自業自得だよ。弱虫柚葉め!
ひとり頭を抱え込む。
しばらくすると、女将さんが二階へやってきた。
「柚葉ちゃん、具合はどう? 大丈夫?」
「あ、ごめんなさい。もう大丈夫です。お客様増えてきたんですよね。今、降りますね」
無理はしなくていいんだけどね、と女将さんは言ってから、柚葉に会いたいというお客様が来てることを告げた。
「西園寺さんって女の人。お友達?」
西園寺……さん? 女の人?
「いえ、友達に西園寺って人はいないですけど……」
西園寺という名に心当たりがないわけじゃないけど、柚葉の知っているそれは、友達の名ではなかった。
兎に角、会ってみようと階下におりて、柚葉はその人を見るなり、目を見開いた。
この人、確かこの前、陸也さんと宝石店で……。
その女の人は、柚葉に微笑んだ。
「あなたが柚葉さん? 初めまして。私は西園寺晶。陸也先輩の高校の後輩なの」
西園寺さんに誘われるまま、暮れなずむ街を歩く。
星霜軒のある商店街を抜けると、川に行き当たる。延々と続く川縁には桜並木が植えてあって、春には夢のように美しくなる。花の時期はとうに終わり、桜は濃い緑の葉を繁らせている。低く垂れ込めた枝の下、二人してそぞろ歩く。背が高い西園寺さんは時折腕を伸ばし、指先で桜の葉を弾いた。
「私ね、高校の時、陸也先輩とつきあっていたの」
え? 陸也さんの元カノ?
隣で歩く西園寺さんを驚いて見上げると、彼女は柚葉の反応に満足げに笑んだ後、顔をしかめて続けた。
「つきあっていたと言っても、少しの間だったけどね。あの頃の先輩は人気者だったから、なかなか独り占めできる感じじゃなくって……」
そういえば、前に里見さんがそんなこと言ってたっけ。陸也さんってば、付き合う人を話し合いで決めてくれと、言ったとかなんとか。
西園寺さんは、その話し合いに参加した人なんだろうか。
「でも、本当は分かってたの。先輩が私たちの誰も好きじゃないことくらい、みんな分かってた。陸也先輩は優しいから、誰のことも好きじゃないって言えなかっただけなんだって」
それ優しいって言うのか? 優柔不断って言うんじゃないか?
「でも、それって一番残酷だわよね」
ですよね。
はっ! もしかして、西園寺さんはその時の苦情を言いにきたのか? だ、だがしかし、それは私が謝罪すべきことなのか? はっ、私が妻だからなのか? そ、そんな恐ろしい業務も妻の仕事なのかっ?
「今日はね、その時の復讐をしにきたってわけなのよ」
うわぁぁぁ。やっぱりだ~。
復讐……穏やかじゃないよぉぉ。陸也さんってば、なんてことしてくれたんだぁぁ。
妻がこんなに危険な職業だとは知らなかった。ほとんど危険物取り扱い責任者じゃないか。
「あ、あの、それって、やっぱり私が謝罪……」 しなくちゃいけないんですよねぇ、と訊こうとした瞬間、遮られた。
「この数ヶ月、本当に楽しかった。独身最後のいい思い出になったわ」
え? 独身最後?
「ご結婚……されるんですか?」
ええ、と頷いて西園寺さんは続けた。
「結局私は、陸也先輩のことをまだ忘れられてなかったのね。でももう前に進まなきゃ。私は幸せになるの。幸せになってやるわよ。だから、いろんな意味で、あなたはその最後の仕上げなんだわ」
私が仕上げ? 西園寺さんが幸せになるための?
西園寺さんは少し憂いを帯びた表情でそう言った後、急ににこやかに対岸に向かって大きく手を振った。
え? なに? 川の向こうに何が……。
つられて向こう岸を見て、柚葉は固まった。背の高いサングラス。川の向こうで身を乗り出してこちらを見ている。
ええええ?
「私ね、先輩が結婚したって噂を聞いて、どうしてもその相手の人に会ってみたかったの。先輩がどんな人を好きになるのか。先輩が恋をしたらどなるのか見てみたかった。面白かったわよぉ。昔先輩がしたことをあなたに話しますよって言ったら、言いなりだったもの。ずいぶん楽しませてもらったわ。そして、先輩にも本当に好きな人ができたんだなぁって、納得できた。で、復讐の集大成として、先輩のした悪行をあなたに知らせて終わりにしようと思うの。あなたには知る権利があると思うしね」
それって、結局、私は陸也さんの悪行を教えてもらえるってことなのです? ってか、陸也さんが私にした悪行って……。
西園寺さんは歌うように楽しげに続けた。
「私は西園寺晶。クラフト西園寺って言ったら思い出してもらえるかしら?」
「え? クラフト西園寺?」
柚葉が就職活動をしていたときに受けた会社だった。最終面接までいって、いい感触だったのに採用されなかった会社の名前。
「私ね、そこの社長の娘なの。あなた入社試験を受けたでしょ? 最終面接まで残っていたわよね。最終面接までいって採用が決まらなかったのは、あなただけなの。どうしてだと思う?」
え? ええええええ? それって、それって……。
「後は陸也先輩に訊きなさいな」
鮮やかに笑んでそう言うと、西園寺さんはきびすを返して歩き去った。
ちょ、ちょ、ちょっと、西園寺さん、待って! 片や川向こうをみやると、ものすごい勢いで走っている陸也が見えた。川上にある橋を目指しているらしい。もうすぐ橋のたもとにたどり着く。
え……っと、どうしよう。西園寺さんを追いかける? それとも陸也さんを待つ?
右と左を交互に見つつ思案する。
その時、突然携帯の呼び出し音が鳴った。陸也からだ。おそるおそる通話ボタンを押す。
「……はい」
『もしもし、柚葉さん? そこで待っていてくださいっ』
いつになく焦っている様子の陸也の声が響く
「は、はぁ」
なにごと? なにごとなんですか?
『絶対ですよ? 絶対待っていてください!』
「……は……い」
ってか、そんな勢いで走ってこられたら、ちょっと引くんですが……。
陸也はもう数メートル先だ。
ちょっと、待って。これって……これって……。
きゃーーー。
柚葉は突然脱兎のごとく走り出した。
「ちょっ、柚葉さんっ!」
きゃぁぁぁぁぁ。
サングラス掛けた黒スーツが追いかけてきたら、逃げなきゃでしょ! そう言うルールでしょ!
捕まったら終わりだよ。逃げなきゃ!
「柚葉さんっ!」
背中に陸也の指先が触れる。
ぎゃーーー。
苦し紛れに桜の木にすがりつくと、桜の木ごと抱きしめられた。桜の木と陸也のスーツの胸に挟まれる。
ぐぇぇ。
「なんで逃げるんですかっ!」
「だ、だって……コワい……」
息も絶え絶えな声で詰られて、息も絶え絶えに答える。
「コワいじゃないでしょう……ひどいな」
もしかして、これのせいですか? と言いつつ、陸也はサングラスをはずした。
「ご、ごめんなさい、つい……」
互いに肩で息をしながら見つめ合う。
陸也の瞳には、不安そうな色が強く滲んでいた。
予防注射に連れて行かれる犬の瞳? じゃないな。いけないことをして怒られた時の子犬の瞳だ。
「西園寺さんから聞いたんでしょう? 私のことを軽蔑しますか?」
もしかして、軽蔑されることを心配しての、その瞳なんですか? 陸也さん、何をしたの?
「陸也さん、私、西園寺さんから……」
何も聞いていませんよ、という言葉は遮られた。
「謝りますっ。就職活動を妨害したのは謝ります。柚葉さんが気の済むまで謝ります。軽蔑してくれても構いません。だから、どうか離婚届だけは……」
へ? 離婚届? あぁ、あの離婚届のことですか?。もしかして、それ、ずっと気にしてた?
以前陸也から渡された記名済みの離婚届。その存在を、彼が気にしていたなど、柚葉はちっとも知らなかった。
……いや、そんなことよりも、今、就職活動を妨害した、って言いましたか?
ええええ?
「あの……西園寺さんは、陸也さんが何をしたのか教えてくれなかったのですが……」
驚いて目を見開く陸也に、柚葉は続けた。
「陸也さん、ここ数ヶ月の間に何があったのか、ちゃんと話してくれませんか? 私も話します。私たちは、もっといろいろなことを話す必要があると思いますよ。その証拠に、私は陸也さんが離婚届のことを気にしていることを知りませんでした。とっくの昔に破り捨てているのに……」
そう言うと、陸也はその場にへたへたと座り込んだ。
「……そう……だったんですか」
翠宮楼の一室で、柚葉は窓際に佇んで庭の池を観ていた。築山から流れ落ちる人工の滝が、静けさの中に心地よい水音を響かせている。この部屋は、翠宮楼のロビー兼応接間になっていて、ゆっくりくつろげるようにソファセットが配置されている。
一緒にここまできた陸也さんは、里見さんに呼ばれて奥へ行ってしまった。柚葉はここで待っているように言われていた。
蔵の家に帰ると、里見さんからメッセージカードが届いていた。
『本日、翠宮楼の露天風呂に通湯します。是非試浴にいらしてください』
庭は青葉の季節。
あの露天風呂から観る青葉は、さぞかしみずみずしく、マイナスイオンを出しまくっていることだろう。
まさか、あのお風呂に私が最初に入れるなんて思ってなかったよ。
はぁぁ、なんてラッキーなんでしょう。
柚葉は幸せなため息をつく。
帰る道々、陸也から今回の西園寺さんとのことを聞いた。
ここ数ヶ月忙しかったのは、西園寺さんの結婚のための新居準備を急遽手伝うことになった為であったこと。その無茶ぶりな仕事を引き受けざるを得なかったのは、かつて陸也が西園寺社長に無茶な頼みをしたからだったこと、を。
「かつて私は、あなたの就職活動の妨害をしました。ほかの会社にあなたを就職させるなんて、できなかったんですよ」
陸也は、西園寺社長に柚葉の採用を取り消してもらうように裏から頼んだらしい。もうすでにうすうす気づいていたことだけれど、本人の口から聞くと、逆に嘘っぽくて、信じられない。
だって、そんな面倒なことをしてまで、私を妨害する意味ってある? 分からないよ。
「あの……それを頼んだのって、クラフト西園寺だけですか?」
陸也は目を泳がせながら、小さく首を横に振った。
え? まさかの?
私の就職活動がうまくいかなかったのは、そのせいだった?
柚葉は呆然とする。
「それって……私が陸也さんの妻だったから……ですか?」
「それはもちろんそうなんですが……あなたのために立ち上げたアトミハウジングなんですよ? あなたが他の会社で働くなんて、考えられないでしょう?」
ええええ? 私のためにアトミハウジングを立ち上げたぁ?
話を聞くと、陸也さんのことを妖精王だと思いこんでいたかつての私は、彼に、安心して暮らせる家を所望したらしい。それを受けて、陸也さんはアトミハウジングを立ち上げる決心をした。なのに、当の言い出しっぺの私は記憶を失ってしまい、そんなことを言ったことすら覚えてなかった。
なんてこと……。
「それならそうと言ってくれれば……」
勝手なことをお願いしておいて、そのことを私は忘れたままで、結果妨害工作をさせるなどと、更なる苦労を陸也さんにさせてしまったことになる。
「私は何度も言いましたよ? アトミハウジングに就職すればいいって」
そう言えばそうでした。
あの頃の私は、就職活動なんて無理だから、アトミハウジングで仕方なく引き取ってやると、彼に言われてるんだと思っていた。見下されてるんだと、そう思っていた。いわゆる、被害妄想ってやつだ。
うわ……私ってば、性格悪い。最低だ。
ごめんなさいを繰り返す柚葉に、陸也は首を振った。
元々建築関係の仕事をしたいと思っていたのは本当のことなので、いい意味で背中を押してもらったのだと笑う。
柚葉は項垂れた。
私はもっと、陸也さんを信頼するべきだったんだろう。
反省する。
「じゃあ、銀座の宝石店に西園寺さんといたのは……」
柚葉の言葉に、陸也は苦笑した。
「やっぱりあの日、私たちを見かけていたんですね? 善太郎さんから柚葉さんの様子がおかしいから話を聞いてあげてくれと言われていたのに、あなたに訊いても何もなかったと言うし……」
あの日、陸也さんは西園寺さんに頼まれて、結納返しの品選びに付き合わされていたのだそうだ。
あぁ、それでタイピンを選んでいたのか……。
納得顔で頷いていると、陸也に顔をのぞき込まれた。
ん? なんで嬉しそうなんです?
「女性と宝飾店にいる私を見て、やきもちを焼いてくれたんですか?」
えっ……と、えええ……っと……。
「そ、そんなんじゃないですよっ。べ、べつに、やきもちなんて焼いてませんからっ。ほ、本当ですよ? 私は、陸也さんのこと、信じてましたからっ」
そんな私の言葉に、陸也さんは破顔した。
すべての誤解が解けて、今まで言えずにいた私の気持ちも伝えられた。ずっと気になっていたこと。
陸也さんのお父様とお継母様に会って、結婚のご挨拶をしたいってこと。
「そうですね。私も気にはなっていたんですが、忙しさにかまけて、延び延びになっていました。でも柚葉さんが気にしているなら、早々に会えるように場をセッティングします」
いろいろなことが解決して、いろいろな誤解が解けて、気持ちが軽くなっていく。
私はもっと陸也さんを信頼していい。もう一人で悩む必要なんかないんだ。私はそういう人と巡り会えたんだから。そんな僥倖に巡り会えたんだから……。
心が奥の方から温かくなっていく。
「柚葉さん、お待たせしました。露天風呂の用意ができたようですよ」
陸也さんが戻ってきた。
「はい!」
うわーい。露天風呂、待ってました!
いそいそとお風呂セットを抱え、浴室へ向かおうとすると、陸也に呼び止められた。
「柚葉さん、これ、一応渡しておきますね」
陸也さんの手には、かわいらしいポーチ。
首を傾げてそれ受け取り、中身を確認して、更に首を傾げた。
中身はビキニ。色は白。紐で結ぶタイプの超ミニマムな布のやつ。
これは……何?
「もちろん使わなくても私は構いませんよ?」
は?
「でも、柚葉さんは恥ずかしがり屋だから、やっぱり混浴では欲しいかなと思って……」
はいぃ? 今、混浴って、言いましたか?
「じゃあ、私は先に入ってます。柚葉さんも早く来てくださいね」
ええええええええ~。いや、聞いてない。混浴だなんて聞いてないよぉ。
里見さんが、露天風呂の感想、あとで聞かせてくださいねって顔を赤らめてたのは、そゆこと? ってか、なんの感想を聞き出そうとしてるのよ。
うわぁぁ。
い、いや、信頼……していいんだよね? こんなミニマムなビキニつけさせるからって、何するわけじゃないんだよね。変な想像する私が変なんだよね。そうだよ。そうだよね。
信頼していい……のか?
空には満月。
明るい光が、青葉の冴えた緑と、紐パンツを指先にぶら下げて、ひとり悩む柚葉を照らしていた。




