第三十二話 世界の真実 (最終話) ☆
蔵の離れに戻るなり、柚葉はシャワーを使いたいと主張した。青年の主張よろしく、朗々と演説する。
「今日はお風呂場の掃除でたくさん汗をかいちゃったでしょう? 日差しもあったし、あの、その、そう! その上、思いがけない梶井さんの話で混乱もしましたし、更に驚いたのは、佳乃のせいで記憶無くしてたってことで、私、もうこれ以上の驚きはないって思っていたら、陸也さんが母に会っていたとかもう、私、今日、一生分のビックリ話を聞いた気がするんですよ。それに、あの、わわわわわたし、こゆの初めてで……その、あの……」
不自然な饒舌さで理由を並べる柚葉に、陸也は苦笑する。
「シャワーを浴びるのに、そんなに理由を挙げる必要はありませんよ。私も浴びたいですしね。母屋まで一緒に行きましょう。支度をしなさい」
あ、あれ?
拍子抜けする。
そ、そか、理由なんていらなかったんだ。そりゃそうか。シャワーを浴びるだけだもんね。
タオルや着替えを準備して外に出ると、陸也が待っていた。
夜空にはハーフムーン。
「じゃ、行きましょうか。足下気をつけてください」
小径を辿り、灯りがついている母屋へと手をつないで歩く。交差した指と指。
こ、これっていわゆる恋人つなぎってやつじゃないですか? 恋人……。
ボムっと脳内で爆発する。かぁっと顔が熱くなった。
手をつないだだけでこんなじゃ、もう私ダメかも……。
手を引かれるままヨロヨロと進む。
事務室には、まだ中川さんが詰めていた。
「中川、お疲れさま。もうここはいいよ。戸締まりは俺がしておくから」
中川さんは立ち上がって軽く会釈をすると、満面の笑みでごゆっくりと言い、事務室を後にした。
や、ごゆっくりって、シャワー使うだけですからっ!
いつもと変わらない様子の中川さんなのに、異常に反応してしまう。
ってか、私が反応しすぎなのか?
シャワーを浴びにきたって分かってるからそう言っただけだよ。そうだよ~。それ以外のなにがあるのさ。か、考えすぎだから。落ち着けっ、落ち着くのよ、柚葉っ。
頬を赤らめ、ひとり混乱している柚葉に陸也が声をかける。
「柚葉さん、お先にどうぞ。私は先に片づけておきたい仕事がありますから」
さっきとは打って変わって冷静な声。
ううう、錯乱してるの私だけっぽい。恥ずかしい。もう帰りたい。もうお布団にくるまって眠りたい。
ぐずぐずと考えつつも、ふと気づく。
あれ? 丁寧語なのは私に対してだけ?
「陸也さんって……」
そう口にすると、すでにデスクワークを始めていた陸也が顔を上げた。
「何ですか?」
「私には丁寧語なんですね」
「……そう言えばそうですね。今までは、あなたが私のことを職場の上司扱いしていたから、つい。丁寧語の方が偉い上司らしいかなぁと……」
陸也さんってば、偉い上司キャラを演じてたんですか?
失笑する。
「そういえば、もう必要ないね。じゃあ、ユズ、先にシャワーを浴びておいで」
突然の砕けた口調にドッキンと心臓が跳ねた。 うっ、やばい、心臓がバクバクする。
私ってば、自分で振っといて、逆に自分を追い込んでないか?
魅惑的な笑顔に見送られ、柚葉はカクカクとした動作で母屋の浴室へと向かった。
シャワーの後、結局柚葉は一人で蔵の離れに帰った。陸也は仕事が立て込んでいて終わらないらしい。
蔵のリビングにあるソファで針仕事をしながら柚葉はため息をつく。
陸也さんってば遅いなぁ。
時計は既に十時を過ぎている。
陸也さんってば、仕事しだすと止まらなくなっちゃう人なんだよね。
柚葉は、ようやく一ピース縫い上げたナインパッチを籠に入れて、首をひねり、肩をトントンと叩いた。
そろそろやめよう。頭が痛くなってきたよ。
ナインパッチで頭が痛くなるのは、佳乃に消された記憶を思い出しそうになるからなんだろうか。私ってば、あのナインパッチのキルトケットのことずっと根に持ってたからなぁ。役立たずってさ。
でも違ってた。あれは、きちんと二人の命を守っていたんだね。想定していた人とは違ったけれども。
一人は見ず知らずの人で、でも、その人にも無事を祈っていた家族がいたに違いない。そして、もう一人は、陸也さん。私にとって今やかけがえのない人だ。
大切な人。
あのキルトケットを作っていて、本当に良かった。今ではそう思っている。
佳乃は、私が記憶をなくしていると聞いて、すごく驚いた。
「少し曖昧になっているくらいだと思っていたのに。まさか、記憶をなくしてしまっていたなんて……」
まぁ、良かれと思ってしてくれたことに文句は言えないよね。高校生の頃の佳乃は催眠術とかにハマってたからなぁ。
実は、梶井さんから記憶を取り戻したいのならいい医者を紹介すると言われている。だけど、あまり気乗りはしていない。陸也さんと出会った時の記憶が消えてしまっているのは悲しいけれど、今更、両親の遺体確認の記憶が戻るのはちょっと怖い。陸也さんも戻った記憶にショックを受けて、今の記憶が飛ぶ方が怖いと言うし。
いや、そんな簡単に記憶飛ばすとは思えないんだけどね。でもまぁ、前科があるから強く否定はできないんだけど。
それに、陸也さんと出会った時の記憶だって、全部無くしているわけじゃない。初めて病室に現れた妖精王の記憶はあるんだもの。当時の私は陸也さんのことを妖精王だと思いこんでいた為に、彼にかなりな無理難題を言った気がしている。そのような記憶もおぼろげにあった。
で、陸也さんに確認してみたんだけど……。
「無理難題というほどのものではありませんよ。一人にしないで欲しいといった感じの可愛いものです。リスクを冒してまで思い出す必要はないと思いますよ。それに、勘違いはあったようですが、出会った時のことは覚えているんでしょう?」
確かに、妖精王が病室に現れた時のことは覚えているのだ。その後の記憶がない。
「いたたた」
何かを思い出しそうな気がして、柚葉は目を閉じた。頭が痛い。
こめかみをグリグリ押していると、蔵の扉が開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
笑顔で交わす何気ない会話だけで、頭痛が吹っ飛んだ。
私ってば、もうこの人なしでは、やってけないんじゃないだろうか。
自分のことながら呆れてしまう。
夜更けに、ソファに並んで座ってアルバムを見る。
陸也さんの洗い髪が、時折私の頬に当たってくすぐったい。
アルバムに貼られているのは、彼が小さい頃の写真だ。ほとんどが、蔵の中か母屋か母屋の庭で写されていた。
陸也さんはどちらかというとお母さんに似ているようだ。奥二重で切れ長の目とすっと通った鼻筋がそっくりだった。お母さんは線の細い和美人タイプ。お父さんは骨太な感じで、海斗さんはお父さんに似たのだろう。瑠璃さんは両方を具合良く混ぜた感じ。
陸也さんと夫婦なのだと自覚して、初めて過ごす二人っきりの夜。何かしてほしいことはないかと彼が言うので、小さい頃の写真が見たいと私は言った。
「俺が小さい頃のはあまりないんだけれど……」
それでも蔵には数冊のアルバムがあった。
ご両親の結婚式のものと新婚旅行のものと、そして陸也さんが生まれてからのもの。
陸也さんの写真は本当に少ない。初めての子ならもっとたくさんあるはずなのに。
新婚旅行でとった写真と比べても少ない。しかも、陸也さんと一緒に写っているご両親の顔が憂いを帯びているように見えるのは、気のせいではないのだろう。
それほどの葛藤があったのだということを、アルバムの写真は如実に表していた。
「あれ? このソファ……」
まだ幼稚園に上がる前くらいの陸也さんが、まだ小さい海斗さんをソファの上で抱っこして座っている。ちょっと感じは違うけれど、今座っているソファと木製の肘置きの形が同じだった。
「あぁ、このソファだよ」
陸也は、座っているソファをポンポンと叩く。
まだ小さかったけれど、このソファを買った時の記憶があるのだと彼は言った。
初めて両親と一緒に外出して、このソファを買ったのだそうだ。久しぶりにみた母の笑顔とクリームソーダの緑。それだけが記憶に残っているという。
「後で聞いたら、あの日、両親は離婚したらしいんだ。つまり離婚の記念とも言うべき品なんだけれども……彼らの場合は、離婚したことで、より強く互いを束縛しあうことになってしまったわけだから、その象徴のようなソファだよね」
ぎょぎょっ。離婚記念日ならぬ束縛記念日の品ってわけ? こ、このソファにはそのようないわくが……。
まじまじとソファを見つめる柚葉に陸也は苦笑する。
「もう何度も張り替えてあるから、最初のソファとは少し風合いが違うけどもね」
弱く笑む陸也に、柚葉はうなだれる。
あぁ、アルバムを見たいなんて言うんじゃなかった。きっと嫌なことを思い出させちゃったよね。私ってば、なんて馬鹿なの? こうなることは容易く想像できたはずなのに……。
「ユズ?」
俯く柚葉を陸也がのぞき込む。
「ごめんなさい。私……陸也さんに、思い出したくないことを思い出させちゃってるよね。もう、本当に、私ってばバカ……」
無言のまま指先が柚葉の髪を梳き上げる。
見上げると、心なしか楽しそうに嗤う翡翠色の瞳。
ん?
「そうだね。じゃあお詫びに、俺も何かしてもらおうかな?」
へ? お詫び?
来て、と手を引かれ連れて行かれた二階の部屋。今まで入ったことのない領域。
陸也さんの部屋。
ドキドキする。
建築関係の本が並ぶ書棚。机も椅子も明るい飴色の木製家具で統一されていた。少しレトロな雰囲気。ボトルシップとか似合いそう。意外だ。
もっと無機質でSFチックな部屋だと思ってた。
キョロキョロしていると、背後から抱きしめられる。
うわぁ。
「あ、あの……私、実は、こゆの初めてで、あの、どうしたら……」
思いっきり困惑しているというのに、陸也さんはクスリと小さく笑って口づけた。
灯りを絞った部屋。
衣服を取り払われた素肌が薄闇に白く浮かび上がる。
体中に口づけられて、さっきから動揺はひどくなるばかり。
「わ、私だけ脱いでて、陸也さん、ずるいですよぉ」
動揺を誤魔化すために発した言葉は、しかし、自らを更なる混乱へと落とし込んだ。
そうだね、と言い、陸也も身につけていたものを脱ぎさる。
あわわわわ。
直接触れる肌の感触。その温もりに硬直する。
「ユズ、力を抜いて。何も考えないで、ただ、感じて……」
寝台の上で絡み合う。じゃれ合う子猫たちのように。もつれた二本の糸みたいに。
体中をまさぐって、敏感なところを何度も責め立てる指先。口づけを繰り返す唇。交ざり合う吐息。
たちまち、痺れるような快楽の波に突き落とされた。
自分の唇から零れる声に戸惑って手で塞げば、声を聞かせてと取り上げられる。いたるところを甘噛みされて、経験したことのない刺激に悲鳴を上げる。
体を跳ねさせながら、もう許してほしいと何度懇願しても、聞き入れてくれない意地悪な唇。
知らない。こんなの知らない。体中が痺れて、頭がおかしくなりそうだ。
「ユズ、どうする? 俺にどうして欲しい?」
「分からない……分からないよぉ」
やめて欲しい? 続けて欲しい? 分からない。ただ、じれったくて、もどかしくて、背中に爪を立てる。
「欲しがって。俺のことを欲しがってよ」
――欲しい。陸也さんが欲しい。
その言葉を何度もせがまれて、柚葉は乞われるまま壊れたように何度も繰り返す。
――俺のすべて、ユズにあげる。
舌を絡ませ、口づけを交わし、体中に唇を這わせ、舐めて、噛んで、互いを食べるみたいに貪欲に愛し合う。
生まれたままの姿で。
「ユズ、大丈夫?」
指先を動かす力もない。
鈍い痛みと脱力と、圧倒的な充足感。
「うん……たぶん」
大丈夫そうじゃないね、と苦笑すると、口移しでレモネードを飲まされた。爽やかな甘酸っぱい味が口の中に広がる。コクリと飲み干せば、冷たい刺激が喉を通って体の奥に落ち込んでいくのが感じられた。
「美味しい」
起きあがるとグラスを手渡された。カラリと氷が鳴る。
「残りは自分で飲みなさい」
いいものを見せてあげる。
そう言うと、陸也はクローゼットの奥からビニールに包まれたものを取り出して見せた。
「これって……」
手の上のそれは、きれいに畳まれていたけれど、薄汚れ、あちらこちらが焦げているナインパッチのキルトケット。
「俺の命を守ってくれた布。俺に生きろと言ってくれた布」
生きて……。
見つめ合い、手を伸ばす。互いの存在を確認するみたいに。
今、私が陸也さんに言いたいことを、このキルトケットは五年前に代弁してくれてたんだ。
良かった。これを作って、本当に良かった。
「陸也さん、生きていてくれてありがとう。私、陸也さんが生きていてくれて良かったって思ってる。両親を守ることはできなかったけど、この布が陸也さんを守ってくれて良かったって、心から思ってる」
額と額をくっつけて、指と指を絡ませる。
「俺も、君のお母さんに会って、君の作ったこの布で助けてもらって、そして何よりも、君に会えて良かったと、心から思ってる」
あなたがいてくれて良かった。あなたに会えて良かった。あなたがいない一生よりも、あなたがいる一瞬の方が、ずっとずっと大切だから。
私たちが生きているこの世界は、春の夜の夢のようなものなのかもしれない。それは途轍もなく不確かで、脆く、儚く、壊れやすいものなのだ。この世界を守りたいと願うひとりひとりの強い思いで成り立っているのだから、そのうちの誰が喪失してもあっけなく崩れる。
だけど、たとえ世界が壊れても、それですべてが終わるわけじゃない。
何度も、何度でも積み上げて、諦めさえしなければ、世界は何度でも再生する。何度でも世界を守りたいと願うこと。
それが生きていくってことなんだ。きっと。
それが世界の真実。
夕焼けに染まる廊下。
コツッ コツ コツ コツッ
硬質な廊下の床を杖がつつく。
病院で貸してくれたベージュ色のパジャマは寸胴の長いシャツのようで、足下がスカスカして落ち着かない。どこかで着るものを調達しないとだな。
陸也は焦っていた。
一刻も早くここを出て、彼女を見つけなければ。途方に暮れているに違いない。泣いているかもしれない。いや、きっと泣いてる。彼女は泣き虫なんだから。
ナースステーションを無事やり過ごし、階段へと進む。エレベーターを使うと抜け出したことがばれてしまうからだ。さっきはそれで失敗した。 足音と杖の音を極力忍ばせて進む。
その時、ふと聞こえた嗚咽の声。
階段にほど近い個室の部屋。僅かに開いたドアから微かに響いてくる。
誰か泣いてる?
妙に気になって、その部屋をのぞきこもうとして瞠目した。部屋の入口に表示されているのは、まさに陸也が探していたその人の名だったからだ。
北村柚葉
……見つけた。
やっぱり泣いていた。
探し求めていた果実が、ひとりでにポトリと手のひらに落ちてきたかのような僥倖。
ドキドキしながら部屋をのぞき込むと、ベッドの上には抱えた膝に顔を埋めて泣きじゃくる少女。その艶やかな髪は夕焼けを弾いて黄金色に輝いていた。白い半袖ブラウスから伸びた二の腕は、細く、頼りなく、儚げで……。
天使……みたいだ。
ふっと消えてしまいそうな気がして、何よりもその涙を一刻も早く止めたくて、気づいたら声をかけていた。
「どうして泣いているの?」
彼女が泣いている理由など分かり切っているくせに、驚かせたくなくて。翅を休めている蝶に近づくように、息を殺してそっと声をかけた。
少し驚いた様子で顔を上げた天使は、その大きな瞳から大粒の涙をポロポロと零した。
「あなたはだぁれ?」
ここから始まる二人の物語。
(了)
最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。
招夏(拝)




