番外編 秘密①
番外編を始めてみました。三~四話ほどになると思います。 招夏
街の灯りがぽつりぽつりと灯り始めるころ、路地裏にある小料理屋の店先にのれんが掛かる。紺地の布に白く抜かれた文字。『星霜軒』というのがその小料理屋の名前である。
「柚葉ちゃん、しばらくゆっくりしたらどうだい。仕事しなくていいって言われたんだろう?」
星霜軒のオーナー兼、板前兼、柚葉の元後見人である善太郎は、その太い眉毛を八の字に下げた。
小柄な体躯に白い板前姿。てきぱきとした無駄のない動作で、善太郎は話している間も手を休めない。鮮度の良い半透明なヤリイカを手早くさばいていく。
「う~ん。そうなんだけどね。でも、することないと逆に落ち着かなくてさぁ」
「そうかい? じゃあこれ、奥のテーブルのお客さんに持ってってもらってもいいかい?」
「はい!」
柚葉は、ぱぁっと顔を輝かせる。彩りよく盛りつけられたヤリイカの刺身を意気揚々と奥のテーブルに運んだ。
一目で分かる鮮度の良さに客の顔がほころぶ。それを嬉しげに見やりながら、柚葉は他のテーブルのお茶を注ぎ足して回った。
何かをして、それを喜んでもらえるのはとても嬉しいことだ。仕事であれプライベートであれ、かわりはない。美味しい料理しかり、きれいな部屋しかり。
私って、結構働くの好きなんだよね。なのにさ……。
――今回の物件には、関わらないでください。
柚葉は陸也からそう言われていた。だから、その作業場がどこかすら教えてもらえていない。
都内らしいんだけどね。
その間何をしていればよいのかと訊けば、翠宮楼の開館準備を手伝うか、星霜軒を手伝うか、あるいは他に何かしたいことがあれば、それをしておいてくださいと言う。翠宮楼というのは、リフォームが終わった旧後見邸のことだ。純和風旅館として秋にオープンする予定。調理場や客室や接客対応などの人員集めや事務手続きや備品の手配などの諸々を、里見さんが中心になってとりまとめている。すごい忙しそう。
でも、里見さんに何か手伝うことがあるかと訊いたら、オープンしたら是非社長と一緒に泊まりに来てくださいね、とにっこり微笑まれた。
これって、つまり、手伝うことはないって言われたんだよね。
結局、私、することがないじゃん。
「善太郎さんなら、何日もゆっくりしろって言われたら何をする?」
「そうさなぁ。一週間くらいなら、旅行でも、と思うだろうけど……。それ以上となると、俺もすることを何も思いつかなくて、困っちまうかもなぁ」
憂鬱そうな柚葉に、善太郎は苦笑した。
そんなわけで、結局、柚葉は毎日星霜軒に入り浸っているのだった。
午前中はアトミフーズの弁当販売を手伝い、午後からは店(星霜軒)の接客を手伝う。店に人がいないときは、善太郎に愚痴をこぼす。そんなことを続けて、もうかれこれふた月になる。
つまり夫婦だと自覚して陸也と一緒に暮らし始めてから、もうふた月たつということでもある。当初の、ぎくしゃくした数日間を経た後、すぐに以前とほとんど同じような日々に戻った。
元々一緒に暮らしてたんだもんね。もっとも、距離は前よりも近くなったと思う。精神的にも、物理的にも……。
物理的……柚葉はひとり顔を赤らめる。
陸也さんは公私の落差がひどすぎると思うんだ。
二人きりになったときの豹変ぶりに、柚葉は毎回たじろいでしまう。何度でも。
ボディタッチ多過ぎ、甘い言葉かけ過ぎ、柚葉を甘やかし過ぎ、なんじゃないかと……。
客足がとぎれたのを期に善太郎が作ってくれた夕飯に舌鼓を打つ。今夜は取引先との会食があるから夕飯はいらないと、朝、出がけに陸也に言われていた。そんな日は大抵、柚葉は星霜軒で夕飯を食べる。
陸也さん、ちゃんと食べてるかな。あとで訊いてみないとね。
相変わらず、柚葉が目を離すと陸也は食事を適当に済ませてしまう。食べるのを忘れていたということもしょっちゅうだ。
今日の柚葉の夕飯は、春菊の菜飯と豚の角煮、ネギとおあげの味噌汁。それにヤリイカのお刺身も付けてくれたので、とても豪華な夕飯になった。
細く切られた新鮮なヤリイカはコリッコリの歯触りで、とても美味しい。
ん~。ここで日本酒でもクイッといきたいところなんだけど、あとで運転するかもしれないから、がまんがまん。
気を取り直して、豚角煮を口に入れる。よく煮込まれてこっくりとした豚肉が、舌の上でグズリと崩れた。瞬間、脂の旨味が口中に広がる。
なにこれ、うま~。
次いで、菜飯をはふっと頬張る。春菊の菜飯は、さっと茹でて刻んだものに塩味をつけてご飯と混ぜ合わせているだけなんだけど、ちっとも青臭くない。春菊のさわやかな香りがふわりと鼻腔を抜けて、口の中の脂っぽさを中和する。
これは、角煮と菜飯のマリアージュだよ。
「はぅ~。幸せ」
「柚葉ちゃんは、本当に美味しそうに食べるねぇ。作った甲斐があるよ」
善太郎が嬉しそうに笑う。
幸せな夕飯を済ませ、香ばしいほうじ茶をすすりながら、柚葉はカウンター越しに善太郎に愚痴をこぼす。
「今回の物件って、なんで私は関わっちゃ駄目なんだろう。場所さえ教えてくれないんだよ?」
何度か訊いてみたのだけれど、その都度はぐらかされた。
「陸也さんのことだ、何か考えがあるんだろうさ」
善太郎の言葉には迷いがない。
「善太郎さんは、陸也さんのこと激しく信用してるよね」
カウンターに頬杖をついたまま、善太郎を見上げる。
「そりゃなぁ」
善太郎は嬉しそうに肯定すると、カウンター内にいた女将さんと目を合わせて頷きあった。
「陸也さんは昔っからそういう人だからねぇ」
二人とも訳知り顔で笑う。
善太郎さんが陸也さんにあったのは、陸也さんがまだ中学生の頃のことだったそうだ。
「その頃、駅前に大型ショッピングモールができてねぇ」
確かに、駅西口には大型ショッピングモールがある。ところで、星霜軒があるのは駅東口。昔ながらの商店街がつらなるエリアの一角だ。
「あっという間にそっちに客足をとられちまってね、数年もしないうちにパタパタと店がつぶれちまったのさ」
今でこそ、割と活気のある商店街なのだが、かつて、すっかり寂れてしまった時期があったらしい。星霜軒も多分に漏れず、まもなく資金繰りが苦しくなった。
「もう店を畳むしかないかと思ったときに、ふと、遠い親戚の後見本家のことを思い出してねぇ……」
それまで交流はおろか、面識さえなかったが、藁にもすがる思いで本家に援助をお願いしに行ったのだそうだ。
結果は惨憺たるもので、こんなやり方では資金を出しても焼け石に水だろうとか、もう年なんだから店を畳む潮時なんじゃないかとか、当時すでに会長として一線を退いていた陸也の祖父に言われたらしい。
厳しい現実を突きつけられただけ。屈辱的な思いを味わっただけ。後見本家への訪問は後悔しかなかった。
店を畳む決心をして、せめて仕入れた食材が無駄にならないよう、尽きるまでは頑張ろうと、翌日店を開けたところに、一人の少年がやってきた。背が高く、痩せぎすの、制服を着た少年。少し途方に暮れた様子の翡翠色の瞳。その不思議な色。
「それが陸也さんだったんだよ」
とっぷりと日が暮れて、馴染みの客を外まで見送った善太郎は、店の外に佇んでいる少年に気がついた。同時に少年も善太郎に気がついたらしい、緊張した面もちでぎこちなく会釈をした。
「あの、食事はできますか?」
少年が問う。
「そりゃ、できるけどもよ……」
善太郎は戸惑う。学校の制服を着た少年がうろつくような時間ではない。
両親共働きか、家が貧しいかで、ご飯を食べさせてもらえないのだろうか。
この時点で、善太郎は、てっきり可哀想な境遇の子なのだろうと、すっかり勘違いしていた。
「坊主は中学生か?」
善太郎の問いに、はい、と頷く少年。
「親はどうした? ご飯を作ってくれないのかい?」
善太郎の問いに、少し考えるように首を傾げた後、少年は困った様子でこう答えた。
「……そうですね。母は料理をしません」
あぁ、やっぱり。こういうのをネグレクトっていうんだって、この前客が言ってたな。可哀想なこった。
善太郎は眉間にしわを寄せて小さく頷く。
当然のことながら、専属の料理人がご飯を作っているから、母親は料理をしないのだなどとは、想像すらしなかった。
気の毒だと思うものの、やはり中学生がこんな時間に繁華街をうろつくのは感心しない。一言言っておくべきだろうと考えた善太郎が諭すと、そうですね、と少年は悪びれる様子もなく頷いた。
「では、昼間ならば食事はできますか?」
あっさり引き下がった少年に、拍子抜けした善太郎が今度は首を傾げる番になる。
ずいぶんあっさり引き下がったな。そこまで切迫してないのか? それとも我慢することに慣れているのか……。
少年のひょろりとした体型に目がいく。
そうだよ。我慢することに慣れているんだ。
なんと哀れなことよ。
善太郎は口調を和らげた。
「昼間ならランチをやってるよ」
「そうですか。では、明日また来ます」
そう言ってきびすを帰す少年に慌てて声をかけた。
「ちょ、ちょっと待ちな。気の短いやつだな。腹が減ってるんだろう?」
善太郎が中で少し待つように言うと、怪訝そうに首を傾げながらも少年はついてきた。
腹を減らしたままの少年を家に帰らせたくなかった善太郎は、何か簡単なものを持たせようと、おむすびを作ることにした。善太郎が手早くおむすびを作っている間、少年は、店内をキョロキョロと見回していた。特に店の壁に書いてあるメニューを丹念に見つめている。
「ランチメニューはそこに書いてあるやつな。本日のおすすめはその日の仕入れ次第なんだが、もう店を畳む予定だから出せねぇ。鮭の粕漬けか、銀ムツ西京焼きか、マグロのづけ丼の三種類になるな」
少年は小首を傾げた。
「……店、そこまで困ってるんですか?」
「まぁな。大型ショッピングモールができてからすっかり客足が遠のいてな、商売あがったりさ。まぁ、坊主に愚痴ってもしかたがねぇやな。明日は大サービスしてやっから、金は心配しないで食べに来な」
そういいながら、できあがったおむすびを持たせた。いくらですか、と問う陸也に、いいからいいから、と背中を押して見送った。
その日の深夜、すっかり店を畳むつもりで、翌日の仕込みをしていた善太郎に、奥から呼ぶ声がする。
「あんた! あんた、後見本家から電話だよっ!」
慌てて電話にでると、明日、資金援助の相談をしたいのでもう一度ご足労願えないだろうか、と後見家の秘書と名乗る人が問う。二つ返事で行く約束をした。
夕刻、夫婦そろって出かけると、前回とは全く異なった部屋に通された。格別によい待遇に、喜びよりもむしろ不安を感じながら応接間で待っていると、現れたのは例の少年だった。ひょろ長い体格の、不思議な瞳の色の少年。ついさっき、店で銀ムツの西京焼きを食べていたあの少年だ。
「ぼ、坊主じゃねーか!」
びっくりして腰を浮かした善太郎に、陸也はにこっと笑った。
「後見陸也と言います。先ほどはごちそうさまでした」
懐かしそうに当時の話をしてくれながら、善太郎は柚葉の湯飲みにお茶を注ぎ足した。
「あのときは、本当に驚いたよ。なぁ」
女将さんも笑って相づちを打つ。
「あの頃、うちもお父さんも、学校の制服なんてちっとも詳しくなくってね。知ってたらあんなおむすびなんて持たせてなかったわよぉ」
女将さんがクスクス笑う。
陸也が当時通っていたのは、都内でも有名な私立の進学校で、進学率も高い代わりに、授業料も高いと有名な学校だった。だから家が貧しいわけがなかったのだ。
しかし、そのとき持たされたおむすびを食べて、そのあまりの美味しさに、助力を決心したのだと陸也は言ったそうなので、怪我の功名というやつだろうか。
おむすびの美味しさで、再建は可能だと確信した陸也は、その日のうちに見よう見まねで初めての業務改善計画を作り、父親を説得したのだそうだ。その際、陸也が提案したのが、昼は弁当屋、夜は一膳飯屋という業務形態だった。
「客足が遠のいたのなら、こちらから行けばいいって言われて、目から鱗だったよ。なんでそんな簡単なことを思いつかなかったのかねぇ」
援助された資金でミニバンを買い、オフィス街で弁当を売った。陸也の提案で、サラリーマンやOLと世間話をしつつメニュー改善を行った。美味しいと評判になって御弁当は飛ぶように売れた。すると、そこで知り合いになったサラリーマンたちが店にも来てくれるようになった。人が人を呼んだ。少しずつ、善太郎の店目当てに人が商店街に足を運ぶようになった。それまで寒さに耐えてひねこびていたような他の店が、少しずつ息を吹き返してきた。人が人を呼ぶ。それまでの悪循環が好循環へとくるりと反転した。
「今じゃ、星霜軒は商店街の救世主だなんていう人もいるが、本当の救世主は陸也さんなんだよ。足を向けて眠れないってもんだ」
「本当だねぇ」
善太郎さんと女将さんは、そろって手を合わせた。真顔で。




