2160_しやわせ、しわよせ、ふし合わせ、左前。
特に理由はないけれどもなんとなくで伝統になったりするものがあるのでしょうねとどうしてと聞くならばどうしてもという答えが返ってくるので釈然としないものがあるという話ではありその理屈が知りたい理由が知りたいというならば理屈っぽいと言われてしまって嫌われることが多いのではなかろうかなとか、ある意味面倒ごとを厭うことではあるのかなとか、資源の消費を防ぐという話でもあるのかなとかぼんやりと連想したあたりで始まる今日のゴブリンです。
どうしてとかなぜとか幼児が尋ねることは正しいものであるという話ではあるのかなとか、不自然ではないということではあるのであろうかとか、いや自然な幼児というものも不自然な感じがするのでしょうか?今日も元気可愛いですね。
死者出ることは特別なことであるという話でありそれなりの作法を作るようになるのであろうかなとか、悲しみを紛らわせるために儀式を創出するようなものであろうのであろうかなとか、つまりはまあ誤魔化しなわけであり、それが主体であるのでそこに意味を見出す理屈を見出すのはよろしくないというかずれているのであろうかなと。
誤魔化すことが主体であるのであるからどうしてそうするのかと突き詰めていくと誤魔化していることが露わになってしまうので効果が薄くなるわけであり、そこを追求するものを厭うことになることはそれほど難しい理屈ではなく、しかし同じように誤魔化しそのものがあまり必要ないような人格ではむしろ楽しい瞬間になるというか、効率化が進んで気持ちが良いという話にもなるのであろうかなとか。
なぜに生きているのか生き続けてどうなるのかという話にまで進んでしまうのが、効率化の行き着く先ではあるわけではあるので、どこかで思考を停止する必要があるのではなかろうかなとか、いやまあ常に考え続けることで生き続けることになるという話もでもあるのではなかろうかなと、そこを止めるためには息の根をそうしなければならないという話でもあるのであろうかなと。
中途半端でも良いのかもしれず、とことん突き詰めていくことが救いになるのかも知れず、この辺りは、状況やら環境やらそこに至るまでの歴史によるのであることはまあ間違いはなく、一概にこうしなければならないということもないのであろうかなとかいやまあ、しなければならないではなくて、そうはならないという話ではあるのかと。
どうしようもないことがあるということを認識しておくべきではあるのかなとか、諦めが肝心であるという話でもあるのかと、受け入れてしまうことと、諦めてしまうこととはどこが違うのかというと、大体似たようなものであり、意識の向け方が違うのであろうかなとか、受け取かた次第、相対的なものであるのではなかろうかなとか。
面倒臭いことはもう放っておいても良いのではなかろうかという諦めがあるのではないかなとか、もうどうなっても良いかという話ではあるのかなとか、全てが全てそのように行動する人格ばかりである方が、実は世の中が回ってしまうのではなかろうかとかそれは思考を放棄しているだけではないかとか。
中庸であることが良いのであろうなぁという話ではあるのかなとか、極端はよくないというか均衡を保つ必要があるのであろうかなとか、いやまあ、振れ幅は大きくてもどこかで中央を通ることになるという話ではあるので、戻ってこなことが問題であるのではなかろうかなとか。
逆に行ったままである方が安定する可能性があるのかなとか極端に固定されてしまうことで変化がなくなるのであろうかなとか、全体で見るならば、均衡が取れている可能性があるのではなかろうかとも、むしろ全体で見なければどうしようもないという話ではあるのかなとか。
個々の性質に注意を向けてしまうことが問題ではあるのかなと、全体を見る必要があるというか、ある意味群れというか群体として人格を考える捉える必要があるのではなかろうかと、ひとまとめとしてそれを生き物として扱う必要があるというかそのように見ることで解決するようなものもあるのではなかろうかなとか、連想していくならば、情報が届く範囲までひとまとめにすると良いし、どこまでも届く可能性があるので、きりがない、のかも知れないとか、ぼんやりと連想を発散させておしまいです。
「儀式立てることで死を特別なものとして演出する必要があるのでしょう」
「滅多にないことにしなければならないという意味もあるのかな?」
「神様を演出するには良い場ではあるのでしょうな”旦那様”
群れを維持するためにはできるだけ死なないようにする?”奥様”」




