2140_尺取虫ならinch取り虫、単位の混ぜそば。
分数にするときには便利なそうでございまして、伝統的にそちらを使うという話はともかく有効に使える場面では切り替えた方が良いということもあるのかなとか、いやまあ、統一しておいた方が誤解が減るという利点はあるわけでございますが、そもそもその間違いから何かが生まれる可能性もあるわけでございまして、痛し痒しという感じではあるのかなとかどちらも不快ではという指摘は、まあ置いておきましょうなゴブリンがお送りする、いつもの無駄話です。
肉体を計りにしているのでわかりやすいというか把握しやすいということはあるのかもしれないとは思いますが、このくらいと、手を広げて示してくれる幼児はそれはそれで可愛らしいものがありますね。今日も元気可愛いですな。
ほぼ大きさが統一されているものを単位にすれば良いのではないかという話ではありますが、身体の中では何であるのかなというと、目玉でありましょうかね?いやまあ、見た目ではかなり大きさが違うようには見えますが、その中身のそれはそれほど違わないのではなかろうかという予想なのでございますが、いささか猟奇的ではあるかと。
内臓の何かを単位にしてしまうというやり口はどうなのであろうかなとか大体個体差がないようなものはあるのかなとか、いやまあ結構、差がありそうではあるので基準にはし辛いものがあるという予想は簡単にできるわけではございますが、偉大な何がしの腕の骨の長さが単位であるということになれば、結構確かなものができそうではありますが、縮んだり、欠けたりしそうではあるので実用的とは言えませんが、まあ、物語的にはちょっと魅力的ではなかろうかとか。
光の速さを利用して距離の単位を決定するというやり口が現在の標準だそうでございまして、もしかすると知識が古くて変化している可能性はありますが、さらに古くは、惑星上の、大地の距離を何等分かしたものを単位にしていたという話ではあるようでございまして、重さの基準は水でおこなっていたという話もありまして、これは現状でも変化ないのでありましょうかね?
空間が歪んでいる状態ではもちろん長さが正確に測れないわけでありますので、実のところ、細かくいうならば、基準そのものが伸び縮みしている可能性があるというか、そもまま全く伸び縮みしているわけではございますが、等くそうなっているのであるならば、それはあまり現実では関係ないという話ではあるのではなかろうかなという。
巨大な、もしくは、些細な差が影響を及ぼすような建築物やら創造物やらがその制度に問題を見せるのであろうかなという予想はできるわけでございまして、その場合は特別に何らかの工夫をするのであろうかなとか、計測やら観測をするための機器であるならば、その結果をさらに補正するための式とかを組むのであろうかなという予想ができるわけでございまして、誤差を許すというやり口も同時にありそうではあるかなとも。
実際のところ、測ることができない、点と点の間になにかがあるのではなかろうかなという妄想は結構面白いものがありまして、観測することができないからこその揺らぎと申しますか、何も無いが有るというような言葉遊びのような何かがそこに加わっているのではなかろうか構築するための素材となっているのではなかろうかという話ではありまして、この辺りの思考を押し進めていくと、魔法のような奇跡のようなとんでも理論が生まれていくのであろうかなとか、創作物的にありではありますが。
大真面目にその誤差が何故に発生するのかということを研究するやり口もまたありそうではありまして、計算外のことが発生するならば、どこない認識できていない、観測できていない力がある、その発生源がある、もしくは関わり合いがあるのではなかろうかとなるのは自然な流れではあるのではなかろうかなとか、いやまあ、単純に観測機器の精度問題という話でもあるかもしれず。
見えないものを見ようとするものが学問であったり研究であったり探求であったりするのであろうかなといか見方を変えるという意味合いである可能性でもあるわけでございますが、測る単位を変更してみたら見えてくるという場合もあるのでは、となると、安易に統一しないほうが良いという感覚もまた真っ当に見えてくるわけではございます、いやまあ、事故につながるのは勘弁してほしいという気持ちもよくわかるわけではありますが、この辺りは上手に付き合っていくしかないのであろうかなとか、ぼんやり想像しつつおしまいです。
「神様のどこかの部位を単位にしましたという言い方もありますね」
「独自の単位はまあ研究にはつきものではありますけれども」
「ある意味光を基準にしているのは神様っぽい気はしますな”旦那様”
キワモノと混ざるのが問題ではありますな”奥様”」




