200_誤解されるのを予想して。
つまるところかなりの文章とか相手に何かを伝える、コミュニケーションを行うという行為は、誤解を含むことが予想されるわけでありますから、そこはもう諦めて、だいたい伝わればいいかなとか、余地を楽しんでくださいねというある意味達観した観点から見てみるのも精神衛生上正しい判断ではあるのでありましょうな、とか言ってみて話のつかみにしようと試みる今日のゴブリンでございます。
では、どうせ誤解されるのでありますから、別にどのように発信してもいいですよね、というスタンスで行動するのはさすがにどうでありましょうかとかは、多数、こういわゆる炎上する話題という現象が観察できるわけで、これはこれで注意は必要ではあるわけでありますけれども、相手を攻撃しているのではありませんよ、とか責めているわけでも、バカにしているわけでもありませんし、不快にさせよとしているのではありません、とか先に言っておいてみても、実際の行動が、多数の人びを不快にさせていたり、怒りを呼び覚ましたりすることはあるようです、と、言いますか、先に断っていた話がその後の行動への負のバイアスとか、スパイスとして働いているような、そのような方々もおられるようで、悪気はないのですよと言ってれば許されるとは思わないでくださいとか言われる部類であるのでありましょうね、とか他人事のようにつぶやくわけでございます。
本人が悪いと思っていないということがさらに問題視されることもありまして、自然にそのような行動をとる個人の性質がこれはもう反社会的で許されないのでありますとかいう論調で攻撃されるわけです、そこで初めて、自分の行動がおかしいとか、言動とか性質が何か不快を相手に抱かせるものであると気がつくわけでしょうが、ここでさらに反論とかしてみたりすると、いい感じにこんがりと焼け付くような気もいたします。
基本、人はどこかおかしいのが普通でありますから、それほど気にすることもないような気もいたしますし、それを前提にここまでやっちゃあダメでしょう、ということで、法律とか最低限のルールを構築しようという欲求が生まれてくるわけでありますから、あれ、私人と違うのでは、と悩まなくとも、まあ、深くはそうしなくともいいですし、私は人と違うんです、という感じで強くプライドとかをそこに求めなくてもいいような感じであります。それは当たり前ですし、それほど差異はきわ立ちませんし。
人間は基本的にそれほどの差異はありません。けれども人同士であると、ささいな差が大きなものに見えたりしたり、そこを追求することに面白味を感じるような生き物ではあるように観察できます。そのような些細な違いを深めて考察したり、表現したりすることが、まあ、文化とか呼ばれるものの種と申しますか、雑音を愛でる神経であったりするのではないでしょうか、とか言う人もおられそうです。
目的は何でしょうか、手段と目的が入れ替わっていませんか、あなたは幸せになりたいのであって、些細な違いを指摘しあうことが目的ではなくて、その違いからの不利益を防ぎたいとか、不快な感情に触れたくないのではありませんかとか、同好のしを見つけて、孤独ではないと安心したいとか、お話をしてみたいとか他者とのふれあいに飢えていてそれを解消したいとか思っているだけで、別に何かを攻撃したいわけではないのではありませんか、とかweb上で宣教師めいた発言をしている方がたも見受けられそうです。
それに救われる方々もいる一方で、これはもうどうしようもなく、何かに噛み付いて、議論をして、攻め立てて何かに勝利したいという欲求を持つ方々も確かに存在するわけでありまして、これは狩猟的な欲求を満たす本能のようなものであるかもしれませんが、正直獲物認定された方は、迷惑極まりないとか思うとか予想できるわけですが、対応策としてはそっと隔離してしまいましょうというある意味冷たい反応を勧められる現状であるように観察されます。
この辺り人間らしいですね、と薄く笑っていれるので、ゴブリンは幸せなのかもしれません。
「愛は、狩りに似ているのです」
「リアルに狩ってましたよね、”ご主人様”」




