1955_四季指揮士気色、まがたま。
季節のある地方に住んでいるとそれようの文化が形成されることはそう間違いではなく、一年を通して変わらないものはない、けれども周期的に訪れる段階的に変化する、もしくは節目で持って急激に環境が変わるとかに、対応したり、適応したり、利用したりしたりして、行動を重ねていくと、歴史になったり、習慣になったり慣習になったりするのであろうなぁ、と別段普通のことを考えつつ始まる今日のゴブリンでございます。
意外な発見をしたと思ってもそれは誰かがすでに通り過ぎていた道であることも多いのですが、それを自分が見つけたのは初めてなので、感動しても良いし誇っても良いと思うわけです。今日も元気可愛いですな。
どちらが優れているのかというならば、環境に変化がない方が負荷が少ないので良いのではなかろうかなとか、ある程度の苦難があるからこそ工夫が生まれて進歩したという話は聞かれるわけでございますが、そのようにせずとも生き延びられる方が、効率が良い場合もあるわけでございまして、別段誇るようなものではないかもしれないわけでございます。
人の知恵やら発想が素晴らしくないという話でもなく、それはそれで価値のあるとする人も多いのであろうな、という感想があるのみであり、別段それは絶対的な何かではないとか何とか言われることもあるのであろうかなとか、便利な世の中になった方が楽で素晴らしいという発想もまた、普通の話であり、ある意味それを否定することは、大多数を敵に回すことになりかねない、のかもしれないとか。
ただ、自然に帰ろうとか、環境を守りましょう、とか、その手の発想は、文明の発達やら工夫とかと対立しようとする場合もあり、一概に、発達開発が正しいものであるとも言えないとかはよく言われる話であり、また一方では進んだ技術のおかげで環境の保線やら回復やらが進んでいるということもあり、一面だけを見て判断することの愚かさを簡単に知らせてくれている例ではありそうではあります。
均衡を保つことが大事であり何事もやりすぎは良くない、という話なのであろうかなとかしたり顔で意見を言うことはできそうではありますが、どこまでがやりすぎなのかむしろそれは今までやっていなかったものを取り返すために何をおいてのやらなければならないものではないのかとか、の見極めが大事になったりするのであろうかなとか、今更焦っても仕方がないと言う諦めが肝心になることもありそうであり。
むしろ慌てて何かをする方が資源の浪費を加速させて破滅へと近づけてしまうとか何とかは心配されそうではありますが、どちらにせよそれほど間に合いそうにないのであるならば、被害を最小限に抑えるべきではなかろうかという話にもなりそうであり、この辺り、趣味の分かれる話ではなかろうかなとか、想像するわけでありまして。
立場と知識量としがらみで行動が変化してしまうわけでありますので、その辺りを調整しておかなければ、集団で何かをなすことで環境を変化させてきた群れとしては生き残れないわけであり、それは強制することで何とかなるという場面をすでに越えてしまっている可能性があるとするならば、自主的に無意識に動けるようにどうにかして誘導する必要があるのではなかろうかなとか。
目的を悟られてはいけなく、結果としてそうなるように仕向けるのであるけれども、仕掛ける本人すらその意識が現れないようにしなければならず、まずは自分を騙すことから始めてしまっておかなければ定着しないという、そこに正義とか道義とか強い感情を当てはめてしまうことによって、曲がるようになるので、あえて入れない、常識であるとかみんながやっているとか、雰囲気を作ってしまうことが、改革の肝であるのではなかろうかなとか。
であるならば、今表に見える何かはそれが見えているという段階で失敗しているのか、もしくは何かを誤魔化しているだけの、囮に過ぎないという考えが生まれてくるわけでございますが、これは大体は考えすぎであると嘲笑の対象になるものであり、いわゆる陰謀論と、称される流れであるわけでございまして、そう思考を誘導されるところがすでに何かしらの誤魔化しである可能性も見えてくるわけであり、ただ、何者かが図面を描いているのではなく、全体として結果として生き延びるような手が無意識にうたれている、可能性があるのではなかろうかとか、証明できないところに現実味がありそうなとか、妄想を膨らませておしまいです。
「心の中にある神様に従っている、ような感覚ではあるのでしょうね」
「意志の介在を関係なくしてしまような力があるという見立てはありそうです」
「思うようには生きられていないという話でもありますな”旦那様”
それは大体、運とか言われているような気もしますな”奥様”」




