193_どうにかしましょうか?
別に、良い結果になるとは限りませんけれども、なんらかな状況の変化は起こすことが出来ますよ?という囁きは、悪魔的なものでありましょうか、もしくは善い存在の啓示でありましょうか。現状維持を否定的に捉えすぎているお方は、ぶの悪い賭け事の様な行為へ駆り立てられたりしがちなのかも知れないのかも知れませんね、とちょっとふわっとした、感想めいた発言を取っ掛かりにして、話題を転がして見ようと試みる、今日のゴブリンでございます。
維持に必要な労力というものは、これは思ったより大きなものではありませんかとかは思うのです。もっとも、皆さんそれはご存知の通りではありまして、積極的に元の形であろうとするならば、そのために、変化に耐えるような工夫をしなければならないということでありましょうと、いう、意見は結構見られるように観察されます。
伝統的な、とか言われるものなどそうではありましょうと思います、放っておくと、ないがしろにされて、消え去ってしまう可能性があるような、もの。現象としては効率的とは言えないですけれども、その不自由さゆえに、残していくことに価値があるとされるような、仕様とか、存在する可能性がありそうであります。
効率とか、利便性とかを越えたところに、その価値を見出しているのでありましょう、これは共通された幻想にも見えてきますし、それほど的外れではありません、つまりは、精神的な主柱であるところの、シンボルとしてのものでありましょうね。それは、むしろ変化させることを厭うような方向へと進むものであり、逆に言うなら、ちょっと気をぬくと、合理化とか安全度の高さからとかで、用意に変質してしまう、繊細なものなのかもしれません。
もっともそれを残すことで、それは本当に多くの人々を幸せにするのですか、さらには、人々のストレスを和らげ、優しい社会を完成させるための、部品になるものなのですか、というという問い掛けは、その維持に少なくないコストを強いられるが故に、これは常に話題に挙げておくべきことでありましょう。もしくは、そのように議題に、口の端に登るようにすることで、風化を防いでいくというテクニックなのかもしれません。意識的にせよ無意識的にせよ、認識されなくなった文化の風化は恐ろしい勢いで進んでいく、という見方もあるわけでありますから。
目的を見失ってはいけないという、意見ももっともです。それを残すことが目的ではなくて、それがあることで、生きるためのストレスが和らぐ、心の糧となるために残すのでありまして、それが理不尽であるような仕様であるなら、これは断固として改革していくなり、すっぱりと過去のものとして、凍結してしまう必要はあるでしょう。
この場合の判断が間違って居る可能性も高く、時代が下った頃に、あああの技術やら、仕組みを伝承さえしておけば、という後悔もまたセットで覚悟する必要はあるでありましょうから、今、必要とされているのは、伝え守るためののコストをどれだけ小さくできるか問いう工夫であるようにも見えてきます。
映像、音声、その場の温度、湿度、など数値で、デジタルで記録できるもの、民衆のうねり、感情、流れ、のような、そのものを全て蓄えて、また再生できるような仕組みが、安価に用意できるのであるならば、限られたコストを有効に使用して、何かを維持、保存することができるのでありまして、もしもの時には復活させることのできるという安心感は、その文化を凍結するときの、安心感へとつながるのかもしれません。
莫大なコストを処理できるためのリソースを見つけ出すという、力わざもまたありそうな気はしますが、お話だと、そのリソースがさらなる危機を社会に突きつけていくように展開するわけですので、この辺り、目が離せないわけであります。
さて、ゴブリンはもしかすると、この現状をどうにかできるかもしれない存在とコンタクトを取れる可能性が皆無ではないですよ、と悪い笑みを浮かべたとき、契約書を前にした人がどのように葛藤するのか少しみたい気もしますね、などと戯言を最後に今日はおしまいです。
「文化圏ごと、隔離して時間を飛ばしてしまえばよろしいのでしょうよ」
「それは魔法的な発想ではありますね”ご主人様”」




