186_喧々諤々な健全さ。
行政の最高責任者に対して、批判的な言動を堂々と取れる社会というのはやはり得難い者であるのでありましょうと思う方も多いのでありましょうねと思う今日のゴブリンでございます。間違っているのではないかと指摘する方から、その主義信条は私には、もしくは私たちには合わないので抗議いたしますとか、不具合ができそうですから、修正した方がよろしいでありますよ、と声を上げるような行為を、気軽にもしくはコストやリスクを少ない状態で行えるということは、これはもう、なかなかよろしい社会であって、ようやくそこまで円熟してきましたね、と頭を撫でられておもよろしいような印象がございます。
地域によってはそのように反論することで、心身へ危険が及ぶような所もあるようではありますが、そこそこ多くの地域ではその立場によらないで自由に発言が許されるような環境が整えられつつあるような印象がございます。
もっとも、聞くに堪えない罵詈雑言を、素直な意見であるとか表現している場合もありますので、その辺りはモラルが大事でありましょうな、とか皮肉を利かせているコメンテイターがテレビジョンに登場してこう足を組んでそっくりかえって言い放っている場面もありそうではあります。言葉の使いかたがまずいので真意が伝わらないというのは少し悲しい現状であるかもしれませんが、あえて乱暴な言葉で印象づけるというテクニックもありそうではありますね。
事実とは異なっていても、言い方やらもっともらしい論理やら、勢いやらで、どうにか通してしまう案件もちらほらと見えたりしたりもしているようです、これは事実の確認がそれぞれでは難しいのであるので、発言の内容やら論理の展開やらのみでなんとなく納得したりもしているのでありましょう。特定の食品に、特別な成分が含まれておりまして、それが、なんとある致命的な肉体の齟齬に効果があるのでありますよ、というお話の展開のようなものでございましょうか。それが含まれているのは本当でありましょうか、その含まれている成分が、本当にそのように働くのでありましょうか、とか、考察したり検証したりする必要があるにも関わらず、それを喧伝する側の作られた検証映像やら実験を鵜呑みにして、騙されてしまうという展開は、古今東西かなり多く見られている現象ではありますが、どうもそれでもまたしっかりと騙されてしまうようであります。
パターンにはまると同じような結果を返してしまう問いうのがあるのかもしれません。そのようなことがあるかもしれないなと、ちらりとでも予想していたり、似たような例が周囲にあるので、これもそうではないかとか思ったりして似たような反応を返してしまうのかもしれませんね。
しっかりと根拠を持って、それを第三者に説明できるほどに構成した後に、発表するということは、それほど難しいことではなさそうな気がするのですが、うまく日常的に使用するのには、一定の訓練が必要な部類であるようでもありそうです。好きか嫌いかで判断すると、これは大きく行動を間違える可能性が高いのですよ、ということは、まあ、別に改めて言うほどもないことだと思うのですが、もしかすると、この前提が成り立っていない個人がおられる可能性も皆無ではないということでありましょうか。
とっさの判断ではこれはもう好悪の感情に従うことは仕方ないような気もいたします。なんとなく嫌なきがするので、とか不安を感じるので、とっさに反応するというのは、生存本能に基づいた、正しい行動ではあるのですが、長期的な案件に好悪の感情を、引っ張りすぎると、直感を根拠にしすぎると、問題が出てくるかもしれません。中には、直感のみで大正解を引き当てる方も、確かにいるとは思いますが、少し立ち止まって、好悪の根拠を内省してみるのもよろしいかもしれません。
少し未来を予想して、よく考えて、そして意見を表明しましょう、論破するのが目的ではなく、問題を露わにして、一緒にそれを解決するために、協力しましょう、もしくは妥協点を探しましょうという観点で、喧々諤々するべきではありましょうな、とかまた意見を煌めかせて、今日はおしまいであります。
「幸福である市民しか存在を認めない、でしたっけかね?」
「それも結構ディープなネタでございますな”ご主人様”」




