185_煩わ寂しい。
誰とも会いたくなく一人静かに暮らしていたいという気持ちから発していたのに、それを寂しいと感じてしまう感覚でありますが、そもそも寂しいという感覚が快楽に転ずるのであるので、目標としていたところ、自身の益を求めるということは、その企てを成功させているのでありましょうね、とか呟くことから始まる今日のゴブリンでございます。
日頃アクティブに活動していたり、受動的ではあるもののそれが、強制されてしまう感覚があるような行動に支配されている、つまりは日常を長く続けていると、反動でぼんやりしておきたい、何もしたくないです、という時間を欲することとなりまして、その後に自分がやりたいことができるくらいの気力が回復してきた時には、その次のサイクルの、ストレスあふれる日常が目前に迫ってきているという、趣旨の意見をちらりと見かけました。
そのサイクルから抜け出すためには、強制されている作業の効率を上げたりして余裕を作る必要があるわけではありますが、余裕を作ると作っただけさらに作業を詰め込まれたりする可能性があるので、そこは注意が必要であるのかもしれません。そのあたり、そこまでするほどの元気はありませんとか、体力気力が持たないので引き受け兼ねますとか、しっかりと言える雰囲気を作っておく必要があるのでありましょうが、そのような環境を作成するためにもエネルギーが必要であるのでありましょうね。さっくりと、それらの関係性を切ってしまうのも手ではあるわけですが、どうしたものでしょう。どなたか、高名な心理学者様がおっしゃられていましたが、人のストレスの主たる原因は人間関係であるそうですので、この辺り、きっちり絶ってしまうのもよろしいのかもしれません。
煩わしいのでありますから、人から距離を置くのでありまして、その結果寂しいという感情が出てくるのなら、それは成功しているのでありましょう。寂しいのが嫌いなのかどうかという問題でもありますが、本当に寂しいのは苦痛でありましょうかという問いを深く自身の心にしてみるのもよろしいのかもしれません。人間関係を少し整理してみるのも、気分転換になる可能性はありそうでありますね。学校へ行っていた経験がありましたら、学友の顔と名前を思い出してみるとかでしょうか、意外と思い出せないかもしれませんし、はっきりと思い出せるかもしれません。
そういえばあの時こんなことがあって、そんなことをしていた人がいたな、とかエピソードで思い出せるかもしれませんし、その時自分はどうしていたのでしょうか、とかと記憶の連鎖をたどっていけるかもしれません。逆に全く思い出せなくて、気持ちの悪い汗をかいてしまっているという結果を導き足したりもするかもしれませんね。今まで何をやって生きていたのか全く思い出せないのならば、自分の存在そのものを疑ってみるのも、結構面白いかもしれません。この記憶は誰のものなのでしょうかとか、ものの本とかによると、記憶というのは容易に捏造されるようでありますので、記録がありましたらそれをひっくり返してみるのもよろしいかもしれません。
セピア色の写真とかその裏に、万年筆やら何やらで書かれたメモやらをとっかかりにして、古い記憶を辿ってみたりするわけですよ。で、誰かが足りないとか、果て、記憶にある全ての登場人物が写真へ一堂に揃って写されているわけですが、誰がこの写真を撮ったのでありましょうか、セルフタイマーであったような記憶はなく、どなたたがカメラを、電子的ではなくて光を焼き付けるタイプのフィルムを使用していた古いタイプのそれを、黒く大きな、無骨とも言えるそれの、巻き上げる手には、ペンだこがあったような、そのような、最後の思い出せないその方は、いったいどこの誰であったのだろうか?とミステリが始まるような記憶を、自身で弄んで行ける、その楽しみを得られるのは、つまりは、寂しさの効用であるのでしょうね、などと、嘯いてみて、今日のゴブリンはおしまいです。
「寂しい時に愛が育てられるのですよ」
「四六時中監視しているように見受けられますが?”ご主人様”」




