161_無いのか、知らないのか。
怖いものなしという言葉がございまして、その意味するところは、実力やら、権力やら、対応力やら十分にありますので何が襲いかかってきても、即応することができてしまいますよ、という自身に溢れた態度やら特質やらを表しています。
対して、怖いもの知らずというのは、知識やら情報やら、場の雰囲気の読み取りかたを知らないので、全く怖いと意識せずに危うい行動を行ってしまうという、ことでありまして、似て入るような感じではありますが、根底に流れるような前提がちょっと違うわけでありますね。
パッと見るとそれほどの違いがないように見えるところが、なんとも恐ろしかんじを醸し出しているわけでありますが、どちらにせよ、無駄に相手を怒らせないほうがよろしいとは思いますので、控えめに、誠実に対応を心がけていくようにしていただけると、周囲の人物のストレスがたまらなくてよろしいように思います。
そのように心がけていくと、無いのか知らないのか知りませんが、どちらも大した影響を周囲に与えないのでありますから、謙虚さやら、用心深さやらは、それらの危うい気質を覆い隠す鎧のような感じがするのでありましょう。ただ、そのような気質を覆い隠されないからこその、怖いものなしという性質でありまして、同じく怖いもの知らずというものでもありますから、一度痛い目を見なければ、学習しないのかもしれません。
同じ痛い目を見るのであれば、それは幼いうちのほうがよろしいとは思うわけではあります、ささいなことで、痛い目を見ておけば、重大な局面で失敗する可能性が低くなるという理屈でありまして、失敗をする練習をしておけるのは、学んでいるというシンボルが周囲に示せれる若いうちでありましょうな、とかいうお年寄りのお言葉がありますが、このんで失敗してみようという方々、若い方でも少ないわけでありまして、そのあたり、うっかり失敗をしないとか恥をかかないで大きくなってしまうと、少し問題がある、可能性もありますが、全くそのようなこともなく、自身の経験の代わりに豊富な想像力で補ってしまって、どうにかしてしまう個体もままおられる、かもしれませんね。
だからといって、わざと失敗を強要するような意地悪をしてしまう大人というのも、端から見ていると少々モヤモヤする方もおられることは、容易に想像できるわけでありまして、これは試練であると共通認識としてもたれている社会であるならば、それはまあ、どうにかなるかもしれませんが、そこに善意の第三者が関わるとややこしくなる、という展開は、どこの世界にもありそうなものではありまして、部外者は黙っておいてください、とか言われるパターンではありますが、どこまでその世界に踏み込めばよろしいのか、誰も明確に答えることはできませんので、そのあたり、もう趣味の範囲で判定してみるしかないのでしょうね。
明確に損得勘定で、横槍を入れてみるのもまたよろしいような気がいたします。そもそも技術者とか職人の教育で、本人の感やら覚悟やらに大きなウエイトをかけなければならないような技術というものは、あまりにも不完全なものでありまして、再現性が低いそれは淘汰されるのが自然な流れというものではありましょうね。
超絶技巧が必要だということは、それだけ技法に不備があるということでもあるのではないか?という疑問を差し込むのが、これが発展の段取りでありましょうと、いう方も多そうです。
一時の感情で全てをご破算にする気ですか、という問いに対して、悪いな俺は我慢というものをしたことがないのでな、とか悪い笑顔で、圧倒的な力で押しつぶしてしまうような、そのような性格は結構格好良いように思えます、愚かしいではありますが、感情のままに動くことは人間らしい、側面を大きく注目させる手法でありましょう、古来からよくある手のように観察できます。
些細なことは気にすることはございませんですよ、という意味の言葉をおっしゃられたり、複雑な道と単純な道が同時に存在するならば、だいたいは単純な道が正しいとか言い切ったりするような方々は、とても気持ちのいいキャラクターに描かれることが多いように観察されます。
それで本当にいいのか?とか突っ込まれるのを待っているようで、さらにおかしみが増します。
現実に側にいても笑ながらそのまま一緒に吶喊してしまいそうな、そんな未来を想像して、疲れているのかもしれませんと、我にかえる方もおられそうです。
「これで彼は私にメロメロなのです」
「これは知らない方でございますね”ご主人様”」




