1507_未知、既知、軋む、家鳴り。
既知を埋めたなら未知を見出せる、のでありましょうか?知れるものを全て知ったならば、知らないを見つけることができるのでありましょうか、ということであるのでありましょうか、そもそも知るを満たすことが可能であるのであろうかとか、そうできなくとも未知を発見することができるのはなぜなのでありましょうか、とか別に答えが出そうにないことをのんびりと想像するあたりから始まる今日のゴブリンでございます。
未知に満たされているからこその、好奇心であるのであろうかなとは予想できるわけでございますが、危ないことはおやめください。今日も元気可愛いですな。
方向という要素を加味することによって、それほど未知の発見を難解にしなくとも良くなる傾向があるのではなかろうかとか、連想していくわけでございまして、分野を狭めていくことによって、既知の範囲を同時に絞っていくわけでございますれば、なるほど、先端へ行くほどに狭まっていき、どうしてそれを調べているのか、研究しているのかの意義を理解できなくなる原因でもあるのであろうかなと予想するわけでございます。
それが未知であるということだけに価値を持たせることができるかと言いますと、これはそうできる環境を用意することが、社会性の生き物であるところの特異な生命体を生かす条件になるのではなかろうかという逆説めいた論調を展開できるのではなかろうかとかぼんやり想像することができるそうでございまして。
根本的な未知へと既知の足取りは続いているのではなかろうかという予想もできるわけでございまして、それは存在することの理屈を解明したいというものになるのではなかろうかなとか予想するわけでございます。端的に言うならば、量子力学に集約される、可能性が高いのではなかろうかとか。
ただそこに至る道筋が無数に存在するのであるかなとか、そこに至る手前で完結するような未知が存在する、第一部完のようなものが存在するだけではなかろうかなとかも連想するわけでございまして、そして、全体の結びであったと信じられていた何かが実は長い道のりの途上である可能性も当然あるわけでございまして。
循環しているだけであったという結論に落ち着いたり、次元を超えてしまって計測する必要が出てきたり、戻っていたのではなくて、視点を変えると、段階が上がっていたのでありそれは円環ではなく螺旋であったのでありますよ、というような表現は、すでに手垢にまみれた陳腐な表現となっている感触もあるわけでございますが、それはそれとして一つの記号として、共通認識に成り上がっていると見る向きもできそうでございます。
知らないを求めるのはつまりは知りたいという欲求があるわけでございまして、遠くは生存本能にひきづられて行われていた行為であるのであろうかなと、つまりは、知らないは命の危機に直結していた時代の本能から培われてきた根源的な衝動であるのであろうかなと予想できるわけでございますが、それを快楽と捉えるようになった個体がたまたま多く生き残ってきたのであるからこその、群れの存続、であったのであろうかなとか、予想するわけでございまして。
好奇心は肯定されるべき感情であるとか動機であるという前提は、現状では妥当な生存条件であると言えるのではなかろうかとか、想像するわけでございまして、そこを否定される案件には本能的に逆らうようになる、のでありましょうか、その辺りは、成長に伴う周囲の環境に左右されるのであろうかなとは予想できるわけでございまして。
知りたいを生かして活かすことによって結果的に生き残っていたのであるけれどもそれが本当に正解かどうかということは未だ検証中であるわけでございますが、そのうちに必ず滅びるのであるならば、どう行動しても失敗なのではなかろうかとか悲観的な意見も出てきそうではあるかなとか、そもそも滅びを否定的に捉えるべきなのであろうかななどと、ちょっと価値観をひっくり返し、そこねたあたりで、おしまいです。
「猫を殺す程度には害悪であるという意見もありますね」
「そこをどう刺激して才能を伸ばすかが大切なのでありましょう」
「それは冒涜的ですな”旦那様”
業が深いのか深くないのか、まあどちらでもよろしいのでは”奥様”」




