1444_寝転んだりんぐ。
出どころが怪しい供出金をいくつかの機関で受け渡すことによって、その出自をあやふやにしてしまってごまかすようなことをやっている方がいるようでございまして、基本たどっているうちに、管理者団体そのものが消失していたり、担当者がいなくなっていたり、帳簿が紛失していたりするようになるようでございまして、なるほど上手いことできているなとか、感心するあたりから始まる今日のゴブリンでございます。
それはどこから持ってきたのですか?覚えていなというのですよね、ある意味直接的なごまかしではありますが、幼児にとっては有効でしょうな。今日も元気可愛いですね。
その大元をたどる旅を自然に邪魔している可能性はありそうでございまして、何らかの語句その語源をたどる時や、何かの言い回しを最初に使い始めた方の所在を突き止めるとか、なかなか難しい場合もありそうでございます。もちろん簡単にそれが判明することもありますし、その確実だと思われていた事例が怪しくなることもまた普通にあるようでございますが。
大昔の劇作家が作成した物語の台本が、今日までの物語の雛形となっているのですよ、という意見もあるわけでございますが、だいたいにおいて、要素を箇条書きにしていくと、共通点が見つかってしまうことは、これはもう明らかであるよくある事象でございまして、そのあたりを気にして来ては、創作はできないのでありますよ、と言い切る方も多いわけでございます。
独創性というものはではどこにあるのかということになりますと、細部に宿っているものがそうであるかなとかそのような意見になるわけでございます。中心になるところの構造はそう突飛なもの据えるわけにはいかないようでございまして、あとはそれにどう枝葉をつけていくかが腕の見せ所となる、かもしれないわけでございます。
もしくはどこに何を立てて中心とするかとかそのあたりでひねってみる方もおられるのではなかろうかとか想像するわけでございます。構造そのものは凡庸であったとしても、その立脚する世界が独特であるならば、十分に独創的で面白いと言える可能性が高くなる、のではなかろうかなとか予想するわけでございます。
もっとも独創的、独特であるから面白いのかと言いますと、一概にはそうとも言えないようでございまして、どうにも共感できないとか、想像の埒外にあるような環境を提示されてしまっても、戸惑いが先に来て、物語に没頭できないとか、いろいろ気になってしまって、先に進めなくなってしまう、受け手も結構観察できるのではなかろうかとか予想するわけでございます。
ただ、分かりやすやを前面に出してしまいますと、今度は、似たような物語を読んだような覚えが脳裏をよぎったり、さらには支配してしまったりすることになり、これはもうお腹がいっぱいであるな、と食傷気味な感覚を得てしまって、脳みそが受け付けない、場合もありそうではございます。この辺り、塩梅が難しいのであろうかなとか気軽に予想するわけでございます。
しかし構造的に大きく歪ませることは結局の所、物語としての枠組みを破壊してしまうことになりまして、文章として成立しない場合すら出てくるわけでございまして、ここを大きく崩してしまうことで得られる利益はそれによって失われる利益よりも大きくはならない、ことが多いのではなかろうかなとか予想するわけでございます。
ちょっと崩してみるとか、少しずらしてみる、とか、錯覚程度に構造を変化させたように見せて、実は何も変わっていない、そのような騙しの技術が必要になる場合もあるのではなかろうかなとは予想できるわけでございますが、それは、実はその時々の時流やら、文化やら、社会共通認識やらが根底にあるわけでございまして、それらは、刻々と変化している場合が多いように観察されるわけでございまして、そこを狙ってずらして表現することは、これはもう結構難し、などというどころではないのであろうかなとか予想するわけでござます。
狙っては無理です、はそういう意味なのだろうなとか、でも見当をつけることは必要なのであろうかなとか、まあ、特に結論は出さずに、おしまいです。
「時流に合わせて自在に変化させてきたものが初期の宗教になるわけです」
「環境とか時間とともに、常識が変化するということを知らせる必要はあるでしょうね」
「最初に一定の信者を獲得する必要がございますからでしょうな”旦那様”
常に適応するように構造を変化させなければならない、ですかな”奥様”」




