127_百聞の力は一見に届く。
元は百聞は一見に如かずという諺でありまして、その後に百見は一試行に如かずとかそのような意味のような言葉が続くらしいです。表題はなら百回聞くことで一度見ると同じ効果が得られるのですねという逆説的な意味をおかしみを持って表現してみようと試みて、少し滑ったかなと思わせられたのなら、狙い通りです。どれだけ負けず嫌いなんですか。
とかく文章というものや、口頭での説明とかやらは、不確かで、事実そのものを伝えることができにくいツールであるというのが、共通の認識であると思うのです、古くから文人というか言葉を操っていた種族の人々は、この不確かなものをなんとかして確かなものとして、伝えることができないかと試行錯誤を行ってきた、のだと予想するわけです。
文学の歴史とかはあまり詳しくありませんが、自分の感じた感動をそのままに、多数の人々に感じ取ってもらいたいという欲求やら目標やらが、物書きや、語り手にはいくらかあるのであろうと予想します。その動機として、たくさん本が売れて、懐が潤うとか、講談師として多数の舞台に立って、報酬をがっぽり儲けようとか、まあ、そのように思うことも自然でありますので、そのあたりは問題視はしないわけです。逆に金儲けなど二の次で、純粋に文章に美しさとか、芸術の追求に耽溺するようなお方もいるわけですが、そのために大衆に迎合するのはよろしくないとひとりの世界に閉じこもるとか、ある特定の分野に閉じこもるのは、不健康であるようにも見えます。別に不健康でもいいわけですし、退廃的な感じというのはそれだけで魅力的に見える、可能性も高いので、その場合、メディアに露出しないほうが、価値が高くなる可能性もありますね。
井の中の蛙大海を知らず、とかにはなるかもしれませんが、その井戸がとてつもなく深いものであるなら、それはそれでいいような気がいたします。その井戸に降りていくつもりはあまりありませんが、呼ばれたら行くかもしれませんね。まずそういう蛙の方は人を呼ぼうとはしないでしょうけれども。
実はタヌキであったというオチもありそうです。そういうお話があったのですけれどもご存知でしょうか?結構面白かった覚えがありますが、タイトルはすでにうろ覚えです。非常におめでたい名前であったような記憶がありますが、結構生々しいお話でもあったようにも思います。幻想的で、好きでしたね。
一文では、見ることの1%しかその伝達性能はないという例えでありますが、その性質を逆にとって、どうとでも見えるように書くということもまた自然に行われていたわけでして。絶世の美女とかいう表現ですが、これはもう、絵には描けない。まさしく絵には描けない美しさでありまして、各々の好みの上で、絶世の美女をイメージしなければならないし、それがとても良い効果を醸し出すわけです。
大平原を覆い尽くす魔物の軍勢とかもそうですね、これはもう作画する方は大変でありますが、文章と書く方は数文字で済むわけです。労力の問題ですね、簡便に、複雑な情報を、いろいろ切り捨てて、ざっくりと述べることができるのが、文章の強みでありまして。正確なところを犠牲にして、伝えたい、強調したいところを、スプーンか何かでえぐり出すようにして提示するところに文章の強み、語り手の強みがあるわけではないかと、まあ、そのように想像するわけです。
このようなことばかり考えている方も世の中には多いのだろうな、と予想します。おそらくは、大学の文学部とか、高校でも趣味で文芸を志している方々とか、市井の中でも個人的に研究している方々も多そうです。何しろ、文章ですから、これはもう手本が山のように、資料が山のように巷に溢れているわけですから、とっかかりが多いように思うのですよ。
人間の思考もまあ、大体は文章で行っているわけですから、そのあたりも検証がしやすいのかもしれませんね。
思考というものは、まとまって、どんと全て出てきて、それを文書化している感覚もあるわけですが、それも合わさって、いつでも考えるきっかけが得られやすいとうのは、文の研究の強みなのかもしれません。
「読んだだけで惚れる文章とか作れませんかね?」
「魔道書の類ですし、法に触れそうですよ”ご主人様”」




