126_持病のしゃっくりで。
最初に聞いた時はそのように判断してしまって、しゃっくりというのは病気の一種なのだですね、とうっかり納得した覚えがうっすらとあります。お侍さんが出演するような時代劇でも最近はこのようなセリフは見ないような気がいたしますが、よく考えると時代劇そのものの新作というものが、最近生まれているのでしょうか、実はあまり最近の流行りには疎いので、その辺り情報が入ってこないのです。
ちなみに”持病の癪”の癪とは胸や腹の痛み一般を言うようですね、お侍さんが出演するような時代劇、新作はそのお国の国営放送ぐらいしかやっていないようです。その他コマーシャルが流れる系列のテレビ局での新作はなさそうですね。
ちょっと前は、猫にとりつかれたような、猫が好きすぎてたまらなくてしょうがないような、猫に振り回されるような、お侍さん?が登場する時代劇?のようなものがあったみたいですが、その後、時代劇っぽいものは放映されていないようです、やはり、予算の関係でしょうか。
あまり作成しても、見る方がいなくなったのかもしれませんね。こう、時代劇のお約束がわからなくなった世代が中心になってきたので、面白みが少なくなってきたようなことも原因かもしれません。いつぞやか、着物を着た時の所作とか和風の建築物への訪問方法とか、屋内での身の運び方とかがクイズになっていましたが、そなあたり、クイズになるほどに、マイナーな知識となってしまっているわけですから、それらの知識の受け皿としての文化がすでに途切れているのだろうなと想像するのです。
学ばなければ楽しめない娯楽はこれはもうとっつきにくいものであることは、予想できるわけですから、文化が時間的に離れてしまっているドラマはこれはもう、流行らない、のかもしれません。逆に、間違ってはいるけれど、奇妙に印象に残るようなとんでも演出で、歴史物が語られるパターンもありそうです。
文化圏が違う方がたから見た、その文化が標準になるわけでして、忍者物でありましたような記憶があります。いえあれは忍者物ではなくてニンジャ物でしたか?もともとはつぶやきの集合であったようでありますが、あの発想は確かになかったような気がします。もっともあのノリが正道を塗りつぶして、300年後まで残ると考えると、これはこれで愉快なような気がいたします。
伝統芸能というか、文化は正しく残した方が良いような気がしてきました、少なくともその時代の歴史を読み解くときには、その時の文化がどのようなものであったのか、のちに分かるようにしておかないと、残された資料を正しく読み解くことができなくて、あたかも予言書のごとく取り扱ってしまう、可能性もありそうですね。
人から人へ、口伝とか、体現とかで、伝えている伝統芸能ですが、これはもう不確かな伝達方法であると思われますね、伝える途中で人の意思が介在するわけですから、どんどん情報が劣化していくわけです。全く同じように伝えたはずでも、認識が少しずつずれていくわけです、人は同じものを見ていないわけでありますから。
なので、早くにデータ化する必要があるのでしょうね、映像はもとより、位置情報を細かく、時間と空間をプロットして記録する方法はすでにあるわけですから、劣化しないように、できるだけ元の状態に近い形で、様々なものを記録していくわけです。
それに対する解説がずれていくのを防ぐために、記録そのものに意味を持たせるような形をとるのもいいかもしれません。その辺り具体的な方法とかは、すでにやられている方がたが多いでしょうから、文化、保存とかで検索するとよろしいかとは思います。
構成要素を分解して、長期にその情報を保存できるようになれば、あとは、その情報から実物を再現させることも可能になるでしょうね。いっそ、その当時の人そのものをパーソナリティごと保存することができるようになれば、資料の保存は完全となる、のかもしれません。
そのようなSFもありそうですね。
「彼をそのままの形で永遠に保存して飾っておくとか素敵ですよね」
「その方向へ進むと、犯罪者にしかなりえませんよ”ご主人様”」




