116_欠けたものが愛おしい。
おもちゃとか、人形とか、部品が少しなくなって、形がいびつになったり、ところどころ綻んでいたりする状態になぜか愛着を感じてしまう、ということがある方、一定数いるような予想をしています。
長いこと使ってきた証拠であるので、愛おしいとか、満足感とかがあるのではないかなと予想するわけです。だいたい実用的ではないようなものが、その対象になるのではないかなとは思うのですが、古い仕事道具だけれども大事にとってあったり、使っていたり、ここぞという時に取り出して、最後の仕上げに使用したりする、こともありそうな状況ですね。
ものは100年大事にすると魂が宿るようになる、というお話を聞いたことがあります。付喪神というそうですね。ちょっと周りを見渡してみて、これは100年前からあったものであるか?という物が見あたるでしょうか。個人の持ち物でいうと、4代ほど前のものが受け継がれていれば、ありそうですね。親の親の親の親が購入したもので今でも現役で頑張っているものというと、思いつくのがお墓であるような可能性が一番高いのでしょうか。
とすると古いお墓、当然大事にしている人も多いでしょうから、これには魂が宿ってきそうですね。先の世界大戦で、古いお墓とかの記録が散逸した地域もあるようですから、ご先祖のお墓がどこにあるのかわからないとかいうこともありそうです。その場合は付喪神になならないのでしょうか、大事にはされているかもしれませんが、由来がわからないお墓ということになりますから、焦点がぼやけてしまって、擬人化はしないのかもしれません。
付喪神になると、人のような形をとるのではないかな、と想像して、お墓の擬人化とか思いつくわけですが、のっぺりとした墓石にヒョンと手足をつけたタイプと、生前の姿がうっすらとその墓石のそばに佇むのは、どちらが、らしいでしょうかね。
その下に眠っている人物の情報が足りないと、やはりきちんと残っている器物が主体になるのでしょうか。確かに誰かが亡くなっていて、ある程度慕われていたとか、社会的にお墓を作られるくらいの付き合いがあったとか、とにかく死を受け入れるための儀式が必要であるくらいには、関わりがあったのであれば、記録が残り、その亡くなった人物に焦点が当たるのだろうけれども、それは記録が失せて、記憶が、年代と超えて曖昧になると、その人物の影が薄くなって、お墓そのものが、イメージの主体へと残ってしまうのだろうなと。だから、お墓に手足という形の付喪神になると。
夜な夜なお墓に手足を生やしたビジュアルでウロウロと散歩する、墓石の付喪神。最近お墓参りに来ないね、うちの子孫は、とか、いいえすでに血縁は堪えまして、とうとう顔かたちを投影するような意識がなくなりまして、墓石に手足ですよ。などと会話しつつ、だんだんと一般的な記号になってしまうのですねと、しんみりとして。しかしそのように忘れ去られるのも私たちの機能のうちであるのでしょうなとか、話す落ち着いた方もおられたり。
人はお亡くなりになります。それはもう、延々と積み重なって、時間が許す限り繰り返されるサイクルな訳です。こう、生まれて成長して老いて亡くなる、たまに過程をすっ飛ばして亡くなる、どうやってもいつかお亡くなりになるわけでして、その度にお墓を作りますと、そのうちに世界中が墓地だらけになりますな、という予想が生まれるわけであります。
実際には、ご先祖様のお墓に一緒に入るとかやって、血縁ごとにまとめるてもあるので、それほど急激にお墓は増えないでしょうし、どこぞには高層ビルのお墓とかもあるようです。用地的には危機感はないのでしょうか。
どこぞの漫画で、星一面に墓石が立ち尽くしているという、絵がありました。文明とかその種の衰退とか終わりとか、象徴的に表されているような気がしまして、今でも印象に残っています。
この星の最後もそんな感じなのでしょうかね?とか思ったりしたりして、その状況でも何か、それを見ている存在とかいるのではないかなとか、考えると、少し愉快です。
「彼と一緒に入る墓を購入したお話はもうしましたよね」
「なぜ今繰り返して言うのです、不穏な空気を感じますよ”ご主人様”」




