115_用意酋長。
酋長という役職は、本当にある程度対象が限られた地域の、責任者であるのでしょうね、とふと思いつきました。スペインから旅立った船が、大陸に到達した時にはすでに、彼らがその大陸の主であったのでしょうかね、主というような思いはなくて、住居にしているとか、住まわせてもらっているとか、謙虚なものであったのかもしれないですね、と想像するわけですけれど、このあたりの歴史とか世界観とか、きっちりと興味を持って、研究している方とかおられそうです。
webの記事を斜め読みしつつ、たとえ、最初に誤りで名称をつけたとしたそれでも、その誤りをなかったことにしようと別の呼称で上書きすることは、その民族の誇りを傷つけることになるのだな、と読み解いてみたりもしています。
誇りというか実利でしょうか、歴史に埋没してしまう、最も最初につけられた、他の文化圏であったもので、現在の言語を主要とする文化圏に飲み込まれてしまった、少数民族が、その固有の文化を亡くすことに危機感を抱いているのでしょうか、ちょっと想像の方へウエイトが寄っていますので、正確なことが知りたい方は、各自調べてみるといいかもしれません。
文化的な侵略、言語の上書き、認識の書き換え、歴史の捏造までは行かないまでも、伝える情報の取捨選択による意図的な誘導とか、善意の行為があまり良い方向へとは向かっていない。そもそも価値観が違う文化圏からの行為は、前提から、その助けようとする文化を曲げさせてしまう。というイメージで、文章なり、物語なりが語られそうな勢いです。
最もそのような呼称にこだわる人もいれば、こだわらない人もいるわけで、どう呼ばれようとも、今の生活が変わるわけでもないと、楽観視していたり、達観していたり、そこまで深く考えていない、意識すらしていなかれらもいるのではないか、と想像してみるわけですが、まあ、それほど遠い予想ではないと思います。
移民してきた人は、迷惑だから出て行ってください。そうなんですか、じゃあ、あなた方はいつ出て行ってくださるのでしょう?という皮肉げな内容の絵をちらりと見たことがあります。なるほど、確かに理屈からいうと、まず彼らがヨーローパに戻るべきなんでしょうかね?そもそもその理屈で言いますと、人間たちはアフリカ大陸に戻るべきなんでしょうか。
文化の差とか人種の差とか、話している言語の種類や、肌の色や、まあ些細な違いではあると、言い切れるくらい大胆さを人たちは持っていてもいいのではないかな、とはたまに思います。手足の数やら、目の数、口の数やら、生き物としての形はそれほど差異はないわけでありまして、何より、同じくらいの波長で世界を認識しているのですから、そこから連想される思考も似たようになるわけでありまして。この場合の波長というのは、光を認識できる範囲とか、聞き取れる音の範囲とか、生存できる温度やら環境の振れ幅とかの意味合いですが、重力もそれほど差異はなく、時間の流れも、受け取りかたが違うかもしれませんが、それでもまあ、誤差の範囲でしょう。
遺伝的にも交配が可能で、寿命も似通ってますし、どうしてまあ、あれほどに些細なことで、比べあい分類したがるのでしょうね、区別したり、きみとぼくはここが違うね、と指摘しあったり。
むしろ、似ている部分が多いので、些細な違いが気になるのかもしれませんね。もどかしい感じかするのかもしれません。ぼくと同じカテゴリの他人には、今の言い方や、しぐさでお話しが通じるのに、なんであなたはわからないのですか?のような、こうモヤモヤした感じが、カテゴリを分けて、そうだから、仕方がないと納得するために、細かく分類していくようになる、のではないかなと、予想するわけですが。
彼らは何々で、こういう特徴を持っていて、僕らとはここが違う、というように、分類することで安心していくというのは、まあ、結構見られる心の動きではあるわけですか。その際自分たちより下に見るように分類してしまうのが、そもそもの問題であるのでしょう、
そもそも酋の表現が差別的な意味合いであるわけですが。
最初に呼ばれたのがエリザベス女王というのもちょっと皮肉な感じがいたしますね。
「いい恋人は、結ばれた恋人だけだ」
「いや、願望と言いますか、それ相手の気持ちがあっての状況ですからね”ご主人様”」




