110_不調なのが日常。
今日は調子が悪いから、良いアイデアが浮かばないから、その気にならないから、作業を中止しよう、という流れは、あまりよろしくないかもしれない、というお話です。
惰性でも続けるべきであろう、ということではなくて、始まったならあとは全て惰性でも大丈夫なようにするべきでしょう。ということ、ではないかな、とぼんやりと思うのです。
どんなに不調でも、作業ができるようになるのが、最低限の能力なのかもしれません。傑作やら、最高の一品やら、完璧な仕事やらが、毎回できるというのは、まず不可能ではないかな、と思うのが健全でありまして、毎回その、完璧なものを求められても困るんですよ、と言って笑うのは別におかしいことではないとは思うのですよ。笑っているではありませんかと、いう、切り返し方は結構切れ味がいいような気がいたします。
どんなにやる気にならなくても、最低限これだけはできる、というのが実力というか、一種の力とか才能とかにカテゴライズされるのではないかなと思うのです。例えば、どんなに疲れていても、家事の中で、食事を作るのはやめないとか、掃除でもここだけはしておくとか、下着だけは洗濯をしておくとか、必要最低限ギリギリのラインを攻めて、惰性で動けるようにしておく、のが大事なのかもしれません。
この後、体がしんどくなって、心もささくれだつことがわかっているほど忙しくなる、なら、その時に最低限の労力で日常の雑事をできるように今のうちに工夫をしておこうとか、いう発想の方は、結構多いような気がするのです。
前倒しに前倒しに色々しておくわけですね、今できそうなことは先にしておいて、後の余裕を生み出そうとするわけです。何をするにしても余裕はクオリティを上げるために必要な要素であるのだなぁと思っているわけです。
カリカリと怒りながら、何かに追われるように作業をするのと、ゆったりと全体を見渡して、必要なところに、必要な力を入れて、適度に休みながら作業をするのと、どちらが優勢であるかは、結構はっきりすることが多いと思うのです。
中には、追い立てられているときのほうが、集中して作業ができるという方もおられるでしょうから、その辺りは人によると、無難なまとめかになるのかもしれません。
毎日することが大事、というのは、毎日する、ことができる、何かを続けるという才能が、自分には備わっているんですね、これはすごいことです、私偉い、と自分を肯定することができるように、その根拠として、据えることができるという意味で、大事なのではないかなぁとも思うのです。
コツコツと毎日やることで、膨大な量の成果物を無理なく作ることができるという側面もそれは確かにありますし、これはこれで美しいとは思ういます。
成果物を受け取る方は、一定の品質が保たれていれば、一晩で作ろうとも、一週間で作ろうともかまわないわけですから、むしろ短期間で作ってくれた方が、あと作業が楽になるので、早い方がいいとすら言うかもしれませんので、実はあまりコツコツ毎日ということには重きを置かないのでしょうね、と予想するのです。
自分の気持ち、その満足度とか、ストレスが積み上がっていかないようにするために、コツコツ毎日続ける、というスタンスが、まさしくストレスをためなくて自分の体と心の優しいのでは、ないかなぁ、とちょっと暗示をかけてみると、なんとなく生きるのが上手くいくかもしれません。
少なくとも、気は楽になるので、調子が戻ってくる、かもしれないと予想するわけです。
「今日もコツコツと彼氏観察日記なのです」
「よもや、web上にアップとかしとりませんでしょうな、”ご主人様”」




