第1話 「あなたは家庭的ではない」
鴨の皿が冷めていく速さで、話の長さがわかる。
ダリウス様がわたくしの至らなさを数え上げはじめてから、脂はもう白く濁っていた。三度は温め直せる皿だった。二度目までなら、まだ食べられた。
「セラ嬢。あなたは、家庭的ではない」
わたくしは顔を上げた。厨房に立つ女は家庭的ではないのだと、この方は本気で仰っている。刺繍の手が止まらないことと、鍋の火加減がわかることの、どちらが家を守るのか。たぶん一度も考えたことがない。
「使用人の仕事に手を出す令嬢を、母が案じておりまして」
「わたくしが出しているのは手ではなく口です。塩の量を決めておりますので」
「そこです」
ダリウス様は満足そうに頷いた。指摘が通じたと思ったらしい。
「決めるのは、あなたの役目ではない」
この方の言うことは、いつも正しい形をしている。規定に沿っていて、筋が通っていて、反論すると反論した側が幼く見える。三年かけて、わたくしはそれを学んだ。
「承知しました」
言いながら卓の端の燭台に手を伸ばす。皿の下の火が消えかけていた。誰も気づいていない。わたくしが直しても、この方はきっと気づかないだろう。
「……ずいぶん、あっさりしているのだな」
ダリウス様が眉を寄せた。そこで初めて、わたくしを見た気がする。
「泣くとお思いでしたか」
「いや。だが、二年だぞ」
三年です、と心の中で直した。この方は数を数えるのがお得意なはずなのに、こういうときだけ間違える。
「三年ぶん、お食事をご用意いたしました」
わたくしは立ち上がった。
「一度も、おいしいと仰らなかったところまで覚えております。ですから、もう温め直しません」
燭台の火を落とす。皿の脂が、白いまま固まっていった。
◇
屋敷へ帰ると、父が書斎の灯りをつけたまま眠っていた。卓には帳面が開いたままで、右端の数字が赤い。
ヴィンター子爵家は交易で立ってきた。南の香辛料と、北の乾物を運ぶ。祖父の代からそれだけをやってきて、それだけで足りていた。
三年前から足りない。
「起きてくださいませ。冷えます」
父は目を開けて、それから帳面を閉じた。閉じるのが早すぎる。
「セラ。ダリウス殿とは」
「解消いたしました」
父の肩が下がった。安堵ではない。息が抜けただけだ。
「……すまん。うちに力があれば、あちらも」
「お父様のせいではありません」
言ってから、自分が本当にそう思っているのか確かめた。思っている。父には祖父ほどの商才がなく、だから荷が細り、だから傾いた。ずっとそう聞かされてきたし、そう見えてもいる。
閉じた帳面の背に、見覚えのない印が押してあった。麦の穂を丸で囲んだ形をしている。
「これは」
「ああ……ロッシュ商会の受取だ。去年、穀物を回してもらった」
「うちが、穀物を買ったのですか」
南の香辛料と、北の乾物。それがヴィンターの荷だ。穀物は扱わない。運ぶ道も売る先も持っていないし、積んでおく蔵すら借りていなかった。
父は答えなかった。灯りを消して、おやすみ、とだけ言う。
わたくしもそれ以上は聞かずにおいた。その夜のわたくしには、まだ聞く理由がない。
厨房へ降りて、灯りをつけずに、手だけで塩壺の位置を確かめる。
母が残したものだ。形見だと人は言うけれど、母はもっと素気なかった。これだけは切らすな、と言った。それだけだ。
わたくしは五つのときからここにいる。刺繍の時間に厨房へ逃げて、叱られて、また逃げた。乾物の戻し方も、傷んだ肉の見分け方も、南の実の毒の抜き方も、この床の上で覚えたものだ。
役に立たない、と言われ続けてきた。
役には立つのだ、と思う。ただ、使う場所が違っただけで。
◇
翌朝、街へ出た。父に頼まれた乾物の掛け合いを済ませて、帰り道に冒険者ギルドの前を通った。
通っただけのつもりだった。
掲示板は依頼票で埋まっている。討伐、護衛、採取。どれも太い墨で書かれていて、遠くからでも読めるようになっていた。
依頼票には日数と人数が入っている。十日で六人、十四日で八人、というふうに。わたくしは癖でそれを食事の数に直していた。十日で六人なら、朝と夜で百二十食。水と燃料を運べる量から引けば、実際に火を通せるのはその半分にもならないだろう。
誰も、そこは書かない。
その端に、一枚だけ小さな紙が剥がれかけている。
――遠征帯同炊事担当、募集。S級。条件あり。
炊事担当。
貼り紙は雨に一度濡れたらしく、下の隅が波打っていた。何日も貼られていて、誰も剥がしていない。つまり、誰も応じていない。
わたくしは条件の欄を読んだ。
『雇用主と、毎食を共にすること』
一行だけだった。
もう一度読む。武具の持ち込みでもなければ、体力の基準でもない。身元の保証ですらなかった。食事を、一緒に。
「それ、四十日ばかり貼ってますよ」
受付台の向こうから声がした。ギルドの職員が、羽根ペンを止めずにこちらを見ている。
「報酬は」
「日に銀貨二枚。遠征のあいだ、ずっとです」
街の食堂の下働きなら、ひと月でその半分にも届かない。悪くない、どころではなかった。
「それで、四十日」
「悪くないから余計に埋まらないんですよ。裏があると思われる」
「条件のせいですか」
職員は羽根ペンを置いた。置いてから、少し声を落とす。
「S級の『灰の牙』ってご存知ですか。あそこの隊長さんが出した条件です。四人来て、四人とも辞めました」
「腕が足りなかったのですね」
「いいえ。腕は問題なかったそうですよ」
職員は言葉を選んでいる。言うか言うまいか、その途中で止まっている顔だ。
「隊長さん、人前で食べないんです。誰も理由を知りません」
「食べない方が、一緒に食べろと」
「そうなんですよ。だから気味が悪いって、みんな言うんですけどね」
みんな、が誰なのかはわからない。ただ四十日ぶん、誰もこの紙を剥がさなかったことだけは確かだった。
◇
その夜、わたくしは自分の荷を数えた。
服が三枚と、母の塩壺。それから、乾物の戻し方を書き付けた綴じ本を一冊。刺繍の道具は入れなかった。
数え終えても、まだ寝る気になれない。窓の下では通りの灯りが一つずつ落ちていく。
食べない人が、一緒に食べることを条件に出している。
あれは要求だろうか。それとも、別の何かだろうか。
紙の隅は波打ったままだ。四十日ぶんの雨と埃を吸って、それでも誰にも剥がされていない。
剥がすなら、明日、いちばんに行くしかない。
わたくしは灯りを消した。消してから、暗がりの中で指を組んだ。
あの条件を置いた人は、何を求めているのだろう。
はじめまして。琴吹あんずと申します。
この物語の主人公は泣きません。泣かないかわりに、火加減を直します。彼女にとって「まっとうに評価されたい」は感情ではなく手つきの問題なのだと思って書いています。
次回、セラは「灰の牙」の面々に会います。七人ぶんの荷を数えるところから始まりますが、彼女自身がその荷に数えられていることには、まだ気づいていません。
【今日の遠征飯】温め直さなかった鴨/制約:三年ぶんの時間/ひとこと:二度目までなら、まだ食べられました。




