第九十五話 よし、やっちゃおう その五
第七王女が側仕え、ミリファ。
ある田舎では全面抗争さえも視野に入れていたほどには緊迫状態にあった二つのギルドの『緩衝材』として機能、結果として二つのギルドの力を借りるだけの立場を獲得していた。
あるいは第七、第五、第四、第一と半数以上の王女に対して何かしらの感情を誘発するだけの存在感を放っている。
いいや、それだけではない。
影響力はすでにアリシア国の範疇に収まってすらいない。ある天使やあるエルフのような超常的存在、魔法大国の女王のような類稀なる支配者、とにかく見境なくありとあらゆる範囲へと影響力は拡大している。
人と人の繋がりに特別な何かなんていらないのかもしれない。思惑なんてなくとも、利害なんて合致していなくとも、人と人とは繋がることもあるだろう。
そんな話で終わるわけがない。世界はそこまで都合良くできてはいない。
であれば、何がある?
好意の収束、人の輪の拡大。ミリファという中心点が宿す『何か』、その正体とは???
ーーー☆ーーー
世界のどこかで。
ある重要な意味を持つ会話があった。
「代替わりした『勇者』が暗躍しているようですね。それに……ネフィレンス、じゃないですね。まったく、いつの間に『魔の極致』を乗っ取られたのやら」
「ミーナ、どうかしたでございますか?」
「何でもないですよ、セシリー様。『正義』やら『新世代』やら、アタシには関係ない話ですから」
「???」
ーーー☆ーーー
スキル『陶酔甘露』。
女王シンヴィア=リギスス=アンリファーンのスキルは幸福感を誘発する。薬物依存症の患者がやめないといけないと意思を持っていたとしても、薬物がもたらす快楽を忘れられず手を出してしまうように、スキル『陶酔甘露』は禁忌の幸福感を与える。
一度味わってしまえば、もう駄目なのだ。
粘膜接触による埋め込みが作用した瞬間から、堕落は止められない。
少しずつ失われていく幸福感をどうにかしようと唇を重ねるという行為を繰り返す第一段階、唇を重ねたって同じような幸福感は味わえないと絶望する第二段階、幸福感を味わうためなら『何だってやる』と誓う第三段階。今のミリファは第一段階ではあるが、第二段階に落ちるのも時間の問題だろう。
薬物の依存に明確な対処法がないように。
幸福感を求める心を治療する抜本的な方法はない。
できることといえば意思の力で押し殺す、くらいだろうか。それこそ不可能だ。あるいは英雄やら勇者やら、吟遊詩人の語る物語の主人公ならともかく、本質的にはただの村娘でしかないミリファにそのような強靭な精神力は備わっていない。
金色のオーラという『他者の力をアテにする』力はあれど、それ以外は本当にどこにでもいる村娘でしかないのだ。
だから。
だから。
だから。
その時、第一王女は鼻で息を吐き、切り捨てた。
「くだらないよねぇ」
詳しい事情まで理解してはいない。
ただし彼女は美貌の第一王女。その美貌一つで第一王女として降臨してきた怪物である。どこぞの第七王女を見ればわかる通り、(世間一般が把握している限り)何の才能もなければどういう扱いを受けるか考えれば、美貌『だけ』で第一王女として堂々と君臨している彼女の異常性が見えてくる。
魔導道具、人脈、魔法、武力、政治、そういった便利な才能があったわけではない。ただ綺麗、それだけ。それだけを、極限まで磨いた結果、クリスタル=アリシア=ヴァーミリオンは第一王女としての地位を確立した。
つまり、
「その程度の魅了を前に足踏みするとでも?」
ふら、ふら、ふら、と。
酔っ払いのように足に軸がなく、右に左と揺れ動きながら迫る少女がいた。キスをしよう、と。そんなたわ言を吐くだけの、抜け殻のような少女が、だ。
こんな状態では利用価値が下がる。
第一王女は側仕えを生贄に捧げてでもアリシア国滅亡の『運命』を粉砕すると誓ったのだ。例え『小さな痛み』が胸に走ろうとも、構わず前に進むとそう誓ったのだ。
だというのに、なんだその醜態は?
この怒りが理不尽なものと分かっていて、それでも第一王女は押さえつけたりしなかった。ただただ理不尽に、当たり散らすように、吐き出す。
「クソッタレな『運命』粉砕のために消費する前に! くだらない脇道でくたばっているんじゃないよねぇ!!」
ばんっ!! と。
両手をミリファの両肩へと振り下ろす。真っ直ぐに、熱に浮かされたような虚ろな目をしている少女を見据える。
「キスし──」
「私を!! 見ろおっっっ!!!!」
そのまま引き寄せた。
唇と唇を重ねる……なんて、どこかの誰かの『魅了』などなぞらない。いらない。不要だ。つまらない。くだらない。
外見だけでなく、内面さえも自在に操作するクリスタルの技能。つまりは美貌。
その力は心に干渉する。あるいは地平の果てまで広がる草原、あるいは雲の上まで突き抜けた霊峰、あるいは現世と隔絶された神殿。ある種の高次元的な感覚さえも抱かせる『美』は人の心を揺り動かす。その『美』は時に感動の上限を振り切り、涙さえ誘発するほどである。
超常が生み出したケミカルな幸福感、薬物依存症に酷似した現象を誘発する快楽がどれだけミリファを心を埋めようとも、圧倒的な『美』はその全てを薙ぎ払う。
そう。
例えどれだけミリファの心を超常でもって歪めようとも、その全てを薙いで正す。『美』の暴虐、嵐のような一撃でもって幸福感ごと歪んだ執着を吹き飛ばす。
それだけのことができるから彼女は美貌を司るとまで言われていて、それだけのことができるから彼女は第一王女として確立しているのだ。
ぱちぱちっ、と。
ケミカルな超常的幸福感に浮かされていた少女が驚いたように瞬きをしていた。睡魔に瞼を閉じようとしていた所に大声を浴びせられたように、ケミカルな幸福感を神聖ささえ伴う美貌の暴虐で薙ぎ払った結果、『目が覚めた』のだ。
夢遊病のような起きているのに寝ているような、意識の混濁が浄化される。ミリファ本来の人格が表へと噴出する。
「あ、れ……? ええっと、クリスタル、様???」
「くふふ。目は覚めたみたいねぇ」
「私、ええっと、何かとんでもないことしていたような? ええと???」
「ゆっくり思い出せばいいでしょーよ。もう全部片付いたことだしねぇ」
ぽんぽん、とミリファの肩を叩き。
そこで僅かに表情を歪めるクリスタル。
「『運命』粉砕を決行するまでは、せめて幸せにやっていくことでしょーよ」
全ては第一王女クリスタルの掌の上なのだ。
己の側仕えとミリファ。二人の犠牲でもって『運命』通りアリシア国を滅ぼす怪物を殺す。少数の犠牲でもって大勢を救う。単純な数字の世界。そうやって納得しているつもりの第一王女は『小さな痛み』を振り払うように首を横に振る。
そして。
そして。
そして。
「『運命』なら、何とかなったよ。私があいつを殺したから、さ」
いきなりだった。
前提を無視しての言葉だった。
「ふえ? なんだって???」
「だから、殺したんだって。正確には私の手でってわけじゃないんだけど、まあ私が殺したようなものだよね。こんな重いの押しつけるまでなんにも気づけなかったなんて、間抜けにもほどがあるよね」
おそらく殺しというものを受け止めきれていないのだろう、どこか暗い顔をしているミリファであるが、その言葉が真実だとすると……?
「は、はは。どこまで、無茶苦茶なんだかねぇ」
ミリファ。
金色のオーラ纏いしジョーカー。
前提として彼女では『運命』を覆せないはずだった。その命を消費してようやくどうにかなるかも、という話だったはずなのに、こうして生きて帰ってきていた。
誰も失わず。
『運命』の大元たる誰かを殺して。
……どこか複雑な表情で黙り込むミリファには悪いが、クリスタルは歓喜のあまり思いきり抱きしめていた。ミリファの胸中にどんな感情が渦巻いているのかは分かっていても、今だけは喜びを抱き寄せたかったのだ。
『小さな痛み』はもうどこにもない。
あのイヌミミが特徴的な側仕えを消費する必要はないのだから。




