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プロローグ

 吾(われ)の父上は皇太子です。

 吾は数えられるほどにしか父上と会ったことがありません。父上は難波京の宮に住んでおられ、吾たち母娘は別の屋敷で暮らしているのです。


「皇太子も、もう少し姫様たちをお気にかけて下されば宜しいものを」

 乳母やがいつも、ぼやいでいます。

「仕方ないわ。皇太子は跡取りの皇子が欲しかったのですもの。吾が、二人目の子が女児だと伝えた時のがっかりした顔」

 母上は、そんな父上を諦念して見ているようです。

「ええ、まさか、それで姫様に会わずにお帰りになるとは」

 吾が初めて父上と会えたのは、生まれてから半年以上経ってからだと、乳母やが言っていました。


「ちょうどお忙しかった時期とはいえ、ご自身のお子のことなのに」

 乳母やはきっと、父上のことが嫌いなのでしょう。言葉の端々に感じられます。



 たとえ父上と会えなくとも、乳母やも母上もお祖父様もお優しいし、吾は寂しくありませんでした。


「おお、皇女(ひめみこ)は、もう文字が書けるのか、なんと賢いこと」

 お祖父様はいつもニコニコして私を褒めてくださいます。お祖父様は右大臣だそうです。

「爺は其方を孫に持てて大変嬉しゅう」

 吾も、優しいお祖父様がいてくれて嬉しゅう思います。

 いつも、珍しい菓子やお庭で採れた水菓子を、吾たちに持ってきてくださいました。

「まあ、このように貴重な菓子を」

「爺は、其方らが喜ぶ顔が見たいだけじゃ」

 お祖父様が父上だったらよかったのに、なんて思うこともありました。


 ・ ・ ・ 


 吾が五歳になった三月のことです。


「大変でございます、石川麻呂様が」

「父上が、どうしたのです」

 母上や屋敷の者たちが騒がしい声で、吾は昼寝から目が覚めました。

「石川麻呂様が、謀反の罪で処刑されましたっ」


 お祖父様は「謀反の罪」で処罰され、首を刎ねられたそうです。

「謀反だなんて、ありえません。何かの間違いでしょう」

「石川麻呂様は既にご自害なされ、一族の者と一緒に首が京に届けられたそうです」

「ひぃいいい」



「あのお優しかったお祖父様がいなくなられた」

 吾は信じられませんでした。


 それからは母上は毎日泣いていました。

「お母様は、お祖父様やお兄様の首が通りに晒されたのを見て、正気を無くしてしまわれた」と乳母たちが言っていました。


 ・ ・ ・ 


 母上のお心は治らず、やがて吾の弟・建皇子(たけるのみこ)を産むと世を去りました。


「お母様、お母様」

 姉上と手を取り合い、共に嘆きました。

「吾はこれからどのように暮らせば良いのでしょう」

「ええ、お姉さま、吾ら姉弟は手を取り合い支え合っていきましょう。建は生まれたばかりだというのに、母上の一度も腕に抱かれずに、不憫でなりません」

「建? 建のせいでお母様は亡くなられたのよ。あの子が生まれなければ、お母様は」

「何をおっしゃるの、お姉さま。建のせいではないわ。お父様のせいだと乳母やは言ったわ」

「いいえ、建のせいよ。吾は、建なんてどうなっても構わない。ああ、悲しい。どうしたらいいのでしょう」


 母上の服喪の期間、吾たちは吉野離宮で暮らしました。


「姉上は酷い。何の罪もない建を、母上の腕に抱かれることも甘えることもできなかった幼い建を、かわいそうに思わないのかしら」


 姉上は、吾たち弟妹を顧みずにただ泣くばかり。

「母上がいない今、姉上の代わりに吾が建を守ってあげる」



「吾がしっかりしなければ」

 そう決意したものの、宮の前を流れる吉野川を見つめていると、涙がこぼれてきました。

「お母様、お祖父様、どうして」


「どうしたの、なぜ泣いているの」

 男の声が聞こえ、顔を上げました。


 そこには見たこともない不思議な格好をした若い男が立っていました。


「ああ、怪しい者ではないよ。道に迷った旅人だ。どうしてひとりで泣いているの? なにかつらいことがあったのかい? 」


 男はシミひとつない真っ白な衣に艶のある黒い上着をまとっていました。男の体は大きく成人のようでしたが、髪も短く髭を生やしていません。冠を被っていないし、平民にしては、肌が白く綺麗で、身なりも整っています。


 このような美しい男を、京でも見たことがありません。

「もしかしたら、神様」


 男は穏やかに微笑みました。

「悲しいことがあったら、我慢しなくて良いんだよ。泣きたい時は大声を上げてごらん。少しは気が晴れる」


 優しいお声。ああ、神様、神様だわ。

「お母様……、お母様、お母様ああああ」

 神様は、吾の背に手を当てました。

「悲しみはいつまでも続かない。生きていれば楽しいことも嬉しいこともたくさんあるから」

 温かく大きな手でした。


 思い切り声を上げて泣いたら、少しすっきりしました。

「吾にもいつか、良いこともあるかしら」

 吾と並んで話す神様の体は、芳香を放っていました。まさしく神様である証拠。


「つらいことを乗り越えると、いつかその分幸せが訪れる。いつまでも嘆いていても幸せにはなれないんだよ」

 姉上の姿を思い浮かべ、その通りだわ、と思いました。


「どうやって、つらいことを乗り越えたらいいのかしら」

「そうだね。願い事があったら、強く心に思うといい。願いに近付いていくよう心がけると、強く生きられる」


 願い事……。


「では、吾は、弟を守れるよう強くなりたい」

「それから、弟が天皇になれますよう」

 いつかきっと……。

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