29、近所の教会へ行く
帽子を買った。帽子は、世界の秘密に関わる鍵のひとつだ。キリスト教会へ行くのに、帽子がいるのである。礼拝の時、男は帽子を脱ぎ、女は帽子をかぶりつづけなければならない。それでなければ、髪を切り落とされ、坊主頭にされるのだ。
そんなわけで、キリスト教会へ行くために帽子を買った。野球帽だ。人生で十個は帽子を買ったことがあるが、九個の帽子は盗まれた。今、思えば、帽子を盗むのは、私をキリスト教会へ行かせないための妨害だったのである。この国は、よく帽子を盗まれる国だ。
あるいは、どこかに帽子を仕舞い忘れてしまっているのかもしれない。私は九個も帽子を押し入れの奥に仕舞い忘れているのか。それはそれで、私の異常を示している。
友人の結婚式を除き、一度も教会へ行ったことがなかったので、近所の教会へ行ってみることにした。人生で一度は教会へ行ってみるべきだと思ったのだ。平日だ。礼拝の日ではない。私は神を信じない。教会に来ても迷惑なだけだろう。しかし、仕方がない。
教会は小さな田舎教会だ。聖なる雰囲気はない。教会が田舎染みているのも、重要な事柄は信仰ではないことを教会が主張しているのだ。おそらく、そこまで考えてデザインされている。町をデザインしているのは、この町の市民である。教会に関わる市民が教会は田舎染みているべきだと主張しているのだ。世界の五分の一を占めるキリスト教文化圏は、非キリスト教文化圏でも存在を知らないということはない。その人たちは、帽子を見て、世界の秘密を感じる。帽子のためにキリスト教会はあるのかもしれない。罰による演出だ。
罰による演出では面白くない。キリスト教会のありがたさが伝わらない。しかし、恩恵の利益が神秘によって教会から湧いて出るわけがない。恩恵は労働によって湧いて出るのである。誰も働きたくはない。しかし、働くから恩恵が出る。この単純な社会の仕組みを、宗教は階級制度でごまかしてきた。労働階級の富を社会構造として簒奪して、それを神の恩恵だと偽っていたのである。
私が教会へ行くのは、学問のにおいを教会に感じるからなのではないか。学問をするなら、図書館か大学へ行くべきだ。教会は、学問に対応していない。教会より、図書館の方が大きいし、大学はもっと大きい。任せられている学問の量がその大きさを示している。
教会では、どこかの家族が葬式の打ち合わせをしていた。祭壇には、聖書が詩篇のページを開いて置いてある。詩篇だ。神に従えと書いてある。私は聖書を読んだことがある。私は神への信仰など持ち合わせてはいないので、あまり押しかけるのは迷惑だというものだ。仕事の邪魔をしておいて、神を信じていないことを自慢に来たといわれても、腹が立つだろう。
私は、以前に一度、教会へ来たことがある。そのことを訪れてから思い出した。なら、わざわざ今日、教会を訪れる必要はなかった。一度だけ行ってみたかっただけなのだ。二度も行くつもりはない。前回に教会へ行った時も帽子をかぶっていたはずだ。その帽子はどこに行ったのだろう。また、帽子を一個、失ってしまっている。二階へ行くと、小さな教会なのに、礼拝堂が見わたせた。建築術としては優れている。
前回、教会へ来た印象が弱すぎて、訪れたことを忘れていた。私の頭は大丈夫なのだろうか。教会に駐車する場所があまりないのだから、教会へ訪れるのもたいへんだ。帽子を人生でいくつ失うのだろうか。
私は、神を信じないキリスト教徒になろうとしていた。宗教を変えるとお金がかかるのだろうか。宗教は家族ごとに決めた方が、便利が良いようにも思う。家族の中で私ひとりがキリスト教徒になるといっても、迷惑なだけだ。それによって、本当に果たして人生が大きく変わるのだろうか。田舎染みた小さな教会は、「そんなことでは人生は変わりませんよ」といっているような気がする。宗教を否定して、科学を肯定して、私の人生がある。それは、他の市民も同じことだ。他の市民の多くも、宗教を捨て、科学を学んで、人生があるのだ。宗教の役割を科学機関に移動させたい。しかし、それには、科学者だといっても信用はできない。宗教に集めた意思の強い人材をすぐには科学機関に移動できない。科学者や技術者だって、誘惑に負ける。簡単に負ける。誘惑に勝てる科学者や技術者の仕事は、需要が多すぎて人手が足りない。人材を集めるのに時間がかかる。
教会にまつわる不思議を私は確かめていない。我が国の支配者層のギャグにノルことを義務にされては困る。おそらく、教会は、我が国の支配者層の壮大なギャグなのだ。ギャグにノレなかった。教会へ行っただけでは、その埋め合わせはなかった。そんなことを教会に期待していた。とうとう教会へ行ったな。メモをしておかないと忘れてしまう。




