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純 ④

 

         9


 幸子の残したメモにあった住所は、なんと『たんぽぽ荘』だった。

 ゴールがスタート地点だった。まさに灯台下暗し。階段下にある郵便受けを確認すると、幸子の字で『三ノ森』と書いてあった。一日を無駄にした自分の洞察力の無さに呆れて嗤ってしまった。こんな偶然があっていいのか。

 三人のいる部屋は、ちょうど純の真上だった。

 歩は壁から天井に歩いて、頭から壁の中に入った。二階の部屋には、懐かしい顔があった。

 父親が新聞を睨みながらラジオを聞き、母親は寝床に付していた。その母の額に濡れタオルを乗せて介抱する幸子。四畳半の部屋を競馬の実況がかき鳴らす。

「よし、いいぞ! いけえ! ……ああ、クソッたれが!」

「お父さん、少し静かにして下さい」

「今いいところなんだ。今度こそ一等を当てるぞ。あいつらから俺の家を取り戻すんだ。いや、もっと立派な家を建てようか。会社も再建してやる」

「お馬さんで家を建てた人はいません」

「やかましいな。お前はそいつの介護をしていればいいんだ。お、次のレースが始まった。いいぞ、いけ、いけ、いけ、よしいけ、追いつけ、追い越せ。あ、クソッ、またダメか! くそったれが。ええい、けったクソ悪い」

 父親はラジオを乱暴に放り投げると、玄関に立つ歩をすり抜けて出て行った。玄関の脇には一升瓶が並び、ビール缶の詰まったゴミ袋が並んでいる。

 父が真横を通り過ぎた時、あの覇気のない顔に驚いた。頬がげっそりとこけ、眼球だけが血走っている。丸く曲がった背中には黒い靄がかかっている。いつか、死神の三善が教えてくれた靄。死の色だ。

「父さん……」

 幸子がこちらを一瞥する。

 母が体をゆっくりと起こした。

「ごめんなさいね、幸子。お父さんはすっかりダメになってしまった」

「私は気にしていない」

「あの人も昔は仕事一筋だったの。会社も潰れて、すっかり運に見放されたわ」

「そうね」

 幸子は母をゆっくりと布団に寝かしつける。

「私、アルバイトに行って来るね」

「本当にごめんなさい、幸子、あなたばかりに苦労させて」

「私はいいの。むしろ、二人には感謝しているの。身寄りのなかった私を娘として引き取ってくれたんだから。さあ、ゆっくり休んで、お母さん」

「本当に、あなたは真面目でいい子ね。歩もあなたを見習ってほしいわ。あの子はまだ帰って来ないの? もうすぐ塾の時間なのに。また、お父さんが起こってしまうわ。困ったものね」

「そのうち帰ってきますよ。それじゃあ、私は行ってきます」

 廊下でしばらく待っていると、幸子が出てきた。

「久しぶりだな、ノタバリコ」

「うん。まさか、ここにいたなんて思わなかった」

「こっちの台詞だ。世間は広いようで狭い」

「おかげでここから九州、実家と無駄足になったよ」

「そこまで探し回って、どんな用だ?」

 歩は、今は真下の純に取り憑いていることを話した。メリーの件は黙ったままにした。とても、犬を飼ってくれなんて頼めるわけがない。

「そうか。つくづく、お前とは縁があるのお」

「笑ってる場合じゃないよ。お父さんがあんなの最低だ」

「わしの言葉も届かない。一度壊れたものは元に戻らん。一つ聞いていいか、渉の背中に黒い靄はあるのか?」

 歩は迷いながら、ゆっくりと頷いた。幸子は目をつぶったまま、「そうか」とだけ答えた。細い肩から力が抜けていくようだった。

「幸子さんのせいじゃないよ」

「責任が全くないとは言えん。あやつに福を与えたのはわしだ。せめて、娘として役割を果たすしかない」

「ねえ、お母さんは……」

「道子は痴呆じゃ認知症というべきか」

「でも、母さんはまだ四十代だよ! 早過ぎるよ」

「医者が言うには、若年性認知症というらしい。世間には四万人近くいるんだと。ここ最近から言葉がおかしかったから診てもらって分かった」

 泣きそうになる自分がいた。父だけではなく、母まで病気になってしまうなんて。その面倒を幸子が一人でやっている現実がもどかしかった。

「僕の力で何とかできるはずだ」

「ならぬ。座敷わらしが感情で人に福を与えてはいけない」

「でも、僕のせいで……」

「誰もせいでもない。案ずるな。これでも、色々な人から助けを得ている。お前は自分の務めを果たせばいい。して、用は何だ?」

「分かるんだね」

「お前は嘘をつくのが下手だ」

 純も同じことを言われた気がする。

「何でもないよ。本当に、僕だけで解決するから」

 歩はそう言い残して、慌てて真下の部屋に帰った。部屋の中では純が壁にもたれたまま、頭を鎮めていた。

「純?」

 心配になって彼に話しかけると、静かな寝息をもれていた。眠っているだけだった。メリーも歩に向かってシッポを振って出迎えている。しかし、状況はよくない。新しい飼い主が見つからない以上、自分がメリーを連れていくしかない。

「ごめんね、メリー。僕の力が足りないからだ」

 メリーが頭を撫でてやったその時、長い耳をピクピク動かした。何だか、そわそわと狭い玄関を周り始める。

「どうしたの?」

 メリーがドアをひっかき始めた。トイレでもない。とにかく低い声で鳴いている。歩はドアを開けてやると、メリーが弾かれたように外に飛び出す。一緒に後ろについていく歩。メリーは純の部屋の隣のドアを前足でひっかいている。確か、純の声を盗み聞きして、大家に告げ口した悪趣味な隣人だ。

 そのドアの隙間から小さな煙が漏れている。嫌な予感がして、そのまま部屋の中に入った。部屋の中が黒い煙で充満し、台所からは赤い炎が伸びている。

「大変だ。火事だ!」

 奥の部屋に炬燵に倒れている住人を見つけた。急いで助け起こそうとしたが、指先が体を透してしまう。やっぱり、生身の人間を持ち上げることはできない。しかし、どうして自分がいるアパートに火事が。

「起きて! 早く起きて!」

 住人の老人は寝言を言って起きる様子がない。手元には酒瓶が転がっている。こうなったらと力を使い、万力のように固い蛇口を両手で回した。水が流れ出し、それを火元に向かってかけたが、炎が勝っていて消えそうにない。

 その時、メリーが大きくほえた。廊下を走りながら順番にドアを叩く。

「そうか!」

 歩はアパートのドアを頭に描いて、そこに大きなこぶしで叩く様をイメージした。ドンッドンッドンッドンッ……。見えない力がアパート中に響き渡った。下の階で「何だい急に!」と大家の声が響いた。

「火事だ。早く来て!」

 歩の声はやはり反応しない。代わりに体が固まった。こちらを二階から見下ろす人物がいた。オールバックの髪をした初老の男。

 死に神の三善だ。細い手には黒いカバンを持っている。

「頑張っているね」

「のんきなことを言っていないで手伝って下さい!」

「私は、人の生死に関わることに手出しはできない。これは君の力によるものだ」

「僕の力?」

「君は、あの青年と犬に肩入れし過ぎたようだ。幸運の“とばっちり”は、周りに及んでしまう。隣と真上の部屋が特に。一戸一戸の家ならともかく、密集したマンションやアパートは、すぐに影響が及ぶ」

「クソッ!」

「我々は精霊にして死者と同じだ。物や人を直接動かすことはできない。眠っている者、死んだ者なら例外だが」

 眠っている者。歩は咄嗟に死に神の言葉に気づいた。

 彼は急いで純の部屋に戻った。眠ったままの純に重なった。彼の一番奥へと心を沈ませる。歩は目を開けた。目の前にある部屋には純の顔があった。思うように動かすと、彼に同化した歩は足を動かして、部屋の外に出た。

「火事だ!」

 と叫んでから火事場に入っていく。火の手は台所から、広間に広がりつつあった。倒れている老人を助け起こそうとするが、手先からずるりと滑っていく。人の体がこんなに重いとは思わなかった。煙が入り、歩はむせた。視界が黒くなる。このままでは純まで危なくなる。

 その時、別の細い手が老人を支えた。

「まったく世話の焼ける奴じゃ」

 幸子が目の前に立っていた。

「バイトに行ったんじゃなかったの?」

「あの死に神に呼び止められて、家が火事だと言われたからすぐに戻ってきた。まったく、座敷わらしが聞いて呆れる」

「どうせ、僕はノタバリコ《未熟者》だよ」

 二人で酔いつぶれた老人を外に出した。ちょうど、大家さんが呼んだ消防車が到着して、消防士が消火を開始した。

 幸運が手伝ったように、先程まで晴れていたはずの空が灰色に変わり、大雨が地上に降り注いだ。


          10


 純の意識が目覚める頃には、炎はきれいに消えた後だった。

 隣室の大沢老人は病院に搬送された。歩は一度、純の部屋から出ていき、改めてアパート全体に憑りついた。そのおかげで、幸運が全室に行き渡って飛び火することはなかった。

「あんた、大丈夫かい?」

 大家さんに彼は驚いて飛び起きた。部屋には幸子もいる。そして、メリーも。

「あれえ、大家さんどうしたんですか? あれ、何か焦げ臭いな」

「何言ってんだい。アパートで火事があったんだよ」

「火事! まさか僕の部屋で」

「寝ぼるんじゃないよ。あんたのおかげで助かったんだよ」

「ハア?」

「あんたが火事だって言ってくれたおかげで、皆が避難できた」

「ハア」

「しかも、酔いつぶれた大沢さんまで助け出したんだ」

「ハア」

「ハアじゃないよ。まったく、無茶なことをして。でもね、最初に吠えてくれたのは、あの子だよ」

 大家さんに呼ばれてメリーが首をかしげる。

「メリーが?」

 純は手を伸ばして、メリーの頭をなでた。

「あんた達がいたおかげで、亡くなった主人が残したこのアパートを、丸焦げにしないで済んだよ。本当にありがとうね」

「あの、大家さん。折り入ってお願いがあります」

 幸子が割って入った。

「この子を飼うのを許可してくれませんか。この子がいなければ、うちの母も助かりませんでした」

「いいえ。僕が飼います。歩にも頼んでみますから」

「ダメだよ。それはそれ。これはこれだ。確かに、この子には感謝しているが、規則は規則だ。あんたも幸子さんとこも犬を飼う余裕なんてないだろ。どうせ、すぐにばてちまうのがオチさ」

「そんな」

「あんたらには悪いけど、この子はあたしが飼う」

「え?」

「大家は例外さ。しかも経験もある。あんた達もいつでもこの子に会える。それにね、メリーはこのアパートの守り神だ。捨てるなんてとんでもない話だよ」

「ありがとうございます」

 歩もつられて同じように感謝すると、幸子は小さく笑った。

「守り神は僕だけどな」

「お前はまだまだノタバリコじゃ」

 歩の不服に、幸子は笑いながらそうささやいた。

「じゃが、人の命を救えるまでなれたなら上出来だ」

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