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メリー ①

 

          1


 歩道橋のベンチに腰かけながら、歩は行き交う足を眺めていた。

 年が明けてひと月が経ち、寒風が吹く夕闇時。帰宅途中の会社員、学生、軽い脚、急ぐ足、重い脚に千鳥足。足の数だけ人生があり、各々が自分の行き先を目指している。毎日同じ道を行く者もいれば、一度きりで通り過ぎる者もいる。

 自分はどうだろうか、歩はふと考えてみた。今まで様々な人の家に住み着いて、人の幸不幸に関わってきた。出た後に良いままの家がある一方で、魔法が解けたように没落した家もあった。

 長い時間が過ぎたようには思えなかった。数日しか過ぎていないように感じる。しかし、誰かの家のカレンダーを見る度、世間はもう自分が死んでから二十年近く過ぎているのに気づかされる。

 それが恐ろしく思うべきなのに、不思議と特別な感情は湧いてこない。知らないうちに時間が過ぎていたんだなと思うだけだった。

 これも座敷わらしの感覚なのだろう。妖怪や精霊の世界が人間より時間が早く流れるわけではない。自分達に時間という概念がないせいだ。生きているようで生きていない存在だから、時間に追われる焦燥感がないのだ。

 歩道橋から望む夜景の中に、ドーム状の建物が浮かび上がる。人間だった頃よりも前にあったオリンピックで建造された競技場だ。四年に一度、それも五十六年ぶりに首都で開かれた祭典の大舞台として、連日のように注目されたのも今は昔。夜間ライトアップされる以外に、国内の大会に使われる機会もない。

 ゴミ箱に押し込められた古新聞には、ため息の聞こえてきそうな見出しばかりが目立つ。『終わらない世界不況』、『二十一世紀の大恐慌』、『倒産企業を更新』、『六十五歳以上の高齢者、人口の四割に迫る』、『幸福の死んだ国、日本』などなど暗い話題の見出ししか見えない。

 出したいため息をなんとか抑えていると、一人の男子高校生が隣に座ってきた。暗い顔をして、一枚の紙きれを握っている。受験票だ。とすると、受験生か。

 歩は学生の頭の中を覗いてみた。

 どうやら今日に高校受験があって、結果が芳しくなかったようだ。家の中では両親の期待を背負い、塾も休まずに頑張ってきた。本当に進みたい道に心を閉ざして、周りの期待に応えようと頑張ってきた。

 なのに、受験に失敗してしまうなんて。これからどうすればいい。働くにも、今の不景気では中卒を入れてくれる会社なんてない。第一、親が許すはずがない。本当は、こんな道を歩きたくはなかった。

 空港から空旅立つ飛行機が少年の視界を占める。彼が進みたかったのは、飛行機の設計士だ。いつか、自分の作った飛行機が空を飛ぶのを見てみたい。航空の学校の受験を考えたこともある。パンフレットも持っているし、こっそりオープンキャンパスにも行った。

 でも、多分無理だろうな。青年はため息を漏らした。歩もついつられた。

「自分の進みたい道を行きなよ」

 青年の背中に手を添えた。わずかな力を送り込んでやる。力の調節もある程度できるようになった。指先から出る幸運の程度は、心に思うだけで調整できる。

「そうだよな。俺はまだできる。やってみないと分からないもな」

 学生は立ち上がると、今度はしっかりした足取りで歩き出した。上手くいくかどうかは、あとは本人次第。ただ、少しだけ勇気に見合う運を与えた。熱意を失わなければ、上手くいくだろう。

 その時、目の前を通りかかった会社員が、足をよろめかせて盛大に転んだ。地面の石に足を引っかけたのだ。学生と同じく助けようと手を伸ばしかけた。

 歩は躊躇した。唇から血を流しているのに、男はへらへらと笑っているのだ。

「ふふひひ、僕は不幸だ。僕は不幸だ。皆不幸になればいい、いひひひッ」

 ぶつぶつとつぶやく背中には、死を暗示するどす黒い靄が漂っている。

「気の毒なことだ」

 耳元で声がした。隣に死に神が座っていたので、歩は驚いて転んだ。

「急に出てこないで下さいよ」

 死に神の三善だ。年の頃は四十代。白髪の混じる髪を後ろになでつけた青白い顔。灰の地味なスーツを着て、手には小ぶりのビジネスバッグを携える。

 彼から歩は両親の死を知らされた。《たんぽぽ荘》を後にしてから数か月後に父が、そして、数年後に母が病院で亡くなったという。二人の葬儀には向かわなかった。そんな気が起きなかったせいだった。

 三善は立ち上がると、小さく肩をすくめた。

「あの男は手遅れだ。数日の間に自ら命を落とすだろう」

「あの人は自殺するってことですか?」

「正確には病死だ。不摂生な暮らしにストレスをため込んで、数年前から癌を放置していた。彼はそれを知っていた。ある意味、自殺というべきかな。いずれにせよ、あまり取り交わしたくない」

「死に神も、選り好みするんですね」

「元は人だからね。情も残っている。こういう仕事はできればきれいでありたい。だが、最近では彼のような精神的な自殺者が多い。蛍が増えているのかもしれん」

「蛍?」

「世の中が暗くなると光り出す蛍だよ。心の弱い人間を光りへいざなう。死の誘惑、生への拒絶。最後は皆、あのようになる。君や同業も苦労する」

 三善はカバンを持つと、男の後ろを歩きだした。


          2


「久しぶりだな、ノタバリコ」

「幸子さんこそ。あの、その子はもしかして」

 歩は言葉につまった。十年ぶりに再会した幸子の腕には赤ん坊が眠っていた。

「息子の正じゃ」

「結婚したんだね」

「少し前にな。姓は実ノ森から石橋になった。夫は中学校で国語を教えておる。少し古風で、やや石頭なところに気が合うての。見てみろ。親に似て、頑固そうな子だ」

 正は目元がぱっちりと開いた子だった。カエル顔ではないせいか、少し安心した。

「それでメリーは?」

「もう立って歩くのは難しい」

 幸子に案内されて、歩は大家さんの部屋に入った。

 そこに布団に入ったメリーがいた。そばには血の付いたティッシュが丸まっており、餌と薬と一緒に置いてある。毛布の上で眠っているメリーは、目だけをこちらに向けた。片目が濁っている。鼻から鼻血が流れているのを、幸子がふき取った。少し舌を出して、笑顔を浮かべるだけで、もう立つこともままならない。

「僕を覚えているんだね」

 歩はメリーの頬をなでた。体はやせ細り、脇腹からあばら骨が浮いている。

「がんの薬。その薬の副作用に耐えるための薬。何種類も砕いて飲ませている」

「純は?」

「今さっき仕事から帰って来たばかりだ。帰ってくるたびに付きっ切りだった。きっと、無理をしたんだろう。昨日は過労で倒れたらしい」

 歩は幸運の色をした気を集めに行こうとした。

「この犬畜生のために使うのか? もう止めておけ」

「メリーを助けるのはこれしかない」

「こやつはもう十九歳だ。犬としては十分長生きした。あとは自然に任せてやれ」

「でも」

 ドアが開いて、大家さんが入ってきた。十年ぶりとは思えないほど、しゃっきりした動きを見せた。

「ああ、よかった。あんたも診てくれているのかい」

「容体はひどいのですか?」

「昨日はたくさん血を吐いた。薬を抑えるための強い薬だから、他の臓器を傷つけてしまう。進行を遅らせるだけさ。毎日、この子の栄養を奪っていく。あとはあたしが面倒を見るから、少し休みな」

 大家さんは手に丸めた紙を持っていた。それをくず入れに投げ入れる。

「まったく。最近は不景気なせいか、おかしな連中がうろちょろしているよ。不幸が幸福だとか叫んでた。純にも言ったけど、あんたも気をつけなさいよ。ああいうのは、真面目な人ほどひっかかっちまう。あんた達や純なんかひとたまりもない」

「心配してくださって、ありがとうございます。夫にも注意しておきます」

「本当に気をつけなよ。連中はね、蛍と一緒さ。辺りが暗くなると、一斉に光り出すんだ。あまりにもまぶしいから、弱い奴ほど周りが見えなくなってしまう」

「肝に銘じます、大家さん」

 歩は純の部屋に寄ってみた。彼は作業着姿のまま、畳の上で眠っている。その上に毛布を掛けてやった。外では灯油を売るトラックが通過し、木枯らしが窓を叩く。もうそんな季節になったのか、と歩は青年の寝顔を眺めていた。

 部屋の中には相変わらず絵が飾ってあるが、昔よりも減った気がする。メリーの治療のために土日まで働いて、絵を描くゆとりがない。

 これも自分の仕業だが、あの時は正しいと考えていたのだ。メリーがここにいなければ、純は今も絵を描き続けていたかもしれないのに。

 本当に自分の力は人を幸せにしたのだろうか?

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