17.王都 新たな日常4. 兄との語らい3.
泣き止んだジャレッドは少し腫れた目元を濡らしたタオルで冷やしていた。
これからまだ人と会うというのに、失敗したと言わんばかりに照れくささと少々の恥じらいを隠すようルザーに顔を見られないようにしている。
不器用な弟だと、ルザーは苦笑していた。戦えば戦うだけ悩みが増えていく。いや、生きていれば常に色々なことを抱え、悩み、ときには苦しむこともある。
「他に悩みがあるのなら聞くぞ――まだまだあるって顔をしてるぜ?」
きっとひとりでなにもかも抱えようとしてしまう弟の負担を少しでも軽くしてやりたいと訪ねる。
婚約者に弱みを打ち明けることができるようだが、すべてではないはずだ。こうして男同士だからこそ、同じ魔術師だからこそ、過去を共有している自分だからこそ話せることがある――そう信じている。
「ルザーには敵わないなぁ。じゃあ、聞くけどさ――俺って甘くなったと思う?」
「俺たちが出会ってからのことを考えれば、俺もお前も甘くなったんだろうな。あのとき、あの施設でおれたちは誰かを犠牲にしても生き延びようと決めた。実際に、犠牲を多く出したからこそ、こうして生きている」
「うん。だから、俺はオリヴィエさまと出会って救われたんだと思う。色々なものを得ることができたとも感じているんだ。でも、代わりに甘くなってしまった、弱くなってしまったんだと不安になるんだ」
感情を吐露し、隠しきれない不安を明らかにしたジャレッドに対し、
「――はっ、はははははははっ」
ルザーは大きな声をあげて笑った。
「いや、笑うところじゃねえだろ」
ムッとするジャレッドだが、ルザーは笑い続ける。せっかく悩みを打ち明けたというのになにがそんなに面白いのだと眉を顰めると、
「悪い悪い。まさか、お前がそんなことで悩んでいるなんて思ってもいなかった」
「俺の悩みはそんなことかよ?」
「ああ、そんなことだ。なんだよ、甘くなったことを悩んでいたと思ったら、今度は弱くなったっていうのか?」
からかうのではなく、どこか呆れたように。しかし、優しげな笑みを浮かべ彼は言う。
「確かにジャレッドは甘くなった。だけど、弱くなったわけじゃない。もしも弱くなっていたのなら、お前は生きていないじゃないか」
「だけど――」
「いいから聞けって。俺とお前はヴァールトイフェルほどじゃないが、生きるか死ぬかの世界で戦い生き残ってきた。褒められないこともたくさんしてきたが、それは俺たちが優しくなかったからだ」
ルザーがなにを言おうとしているのか、すぐに理解できず戸惑いが浮かぶ。
「優しくなかった?」
「そうだ。俺たちは優しくもなければ、決していい人間でもなかったはずだ。でも、今のお前は違う。変わったんだ。確かに甘くなったのかもしれない。だけど、それでいいじゃないか。ジャレッド・マーフィーはオリヴィエ・アルウェイさまと出会ったことで――ようやく優しくなれたんだ」
わしゃわしゃと頭を撫でられる。
兄――というよりも父のようなルザーに、
「俺を子供扱いするな」
気恥ずかしさを覚えて、つい心地よい彼の腕から逃げてしまった。
「お前の甘さは優しさだ。だから変える必要はないし、変わる必要もないと俺は思う」
「だけどさ――それで本当にいいのかな? 実際、戦って負けた。正統魔術師軍だけじゃなく、ワハシュにも手も足も出なかったんだ」
「正統魔術師軍がどれほどの実力者だったか知らないからなにも言えないけど、ワハシュは相手が悪すぎる。比べるな」
再び頭を撫でられ、やはり子供扱いされていると不満を浮かべる。
「でも、俺は甘くなった、弱くなったと言われたんだ。実際、そう思う。ルザー、俺は本当にこのままでいいのかな?」
「当たり前だ。助言してくれた奴は、きっとお前のことが心配なんだよ。生きてほしいと願っているからこそ、厳しい言葉になろうと言ってくれたんだ。どうでもいいと思う相手だったらなにも言わないさ」
そうかもしれない、とジャレッドはここにはいないプファイルを思う。
彼は自分のことを間違いなく案じてくれていた。それだけは確かだ。だからこそ、こうして頭を悩ませ、このままでいいのかと自問自答していた。結局答えが出ず、相談に乗ってもらっている。
「ジャレッドはもう変わる必要はないんだ。復讐する理由もなくなり、誰かを犠牲にしなければ生き残れないほどもう弱くもない。――優しいまま強くなれ」
「優しいまま、強く」
「そうだ。もっと力をつけて、優しさを貫けるようになれ」
「できるかな?」
「できるかな、じゃなくてやるんだよ。オリヴィエさまと出会う前のジャレッド・マーフィーに戻りたいのか?」
「――っ」
頭を殴られた気分だった。
言われるまでもない。たった半年にも満たない時間だが、ジャレッド・マーフィーはオリヴィエ・アルウェイと出会い、影響を受け、変わった。
愛する人を守りたいという大切さを学んだのだ。そして、彼女と同じように、守りたいという気持ちを覚え、戦い続けてきた。
オリヴィエと出会うジャレッドには、考えられなかった、戦い理由を得ることができた。
彼女と出会う前に、ただ我武者羅に生き続け、魔術を使い敵となる者をすべて屠っていたころに戻りたいとは思わない、思えない。
友人もいる。失ったと思っていた兄も戻ってきた。師匠との再会、母の家族とも出会った。
なによりも――初めて愛しいと思った人がいる。
「今さら昔に戻れるわけがないだろ。俺は、今がいい。今が幸せなんだ」
「ならもう答えは出ているだろ?」
「ああ、そうだな。答えは簡単だ――俺は確かに甘くなったのかもしれない。弱くなっているのかもしれない。だけどもう、昔に戻らない。大切な人たちと培って今の俺がいるだから、俺はこのまま強くなるよ」
「その意気だ。頑張れ、ジャレッド・マーフィー」
いまだ頭をなでるルザーの手を、今度は避けようと思わなかった。
彼の優しさが伝わってくると、なんとも言えない温かさが胸に湧き上がってくるのを感じる。
温もりを胸に抱き、まだ迷いがあることを自覚した。すぐに切り替えができるほど単純な人間ではない。少し面倒な性格をしていることはわかっていたが、自分でも苦笑いを浮かべてしまうほど困ってしまう。
それでも前に進んでいくと決めた。バルナバス兄妹のこと、自覚した甘さのこと、すべてが今の自分を形成しているものだと受け入れることができた。
歩みは遅く、一歩一歩は困難かもしれない。しかし、優しくあれるのならば優しくありたい。自分が多くの人に優しくされたように、優しさを返したかった。
愛する人のためにも、ただ奪うだけの人間には決してなりたくない。
長い間、迷いながら歩んでいたジャレッドは、多くの人の力を借りて真っすぐ歩んでいけそうだった。




