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二人の子どもでなくても  作者: わかめ


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第4話「非推奨申請」

美咲が答えを出したのは、それから四日後だった。


 その間、二人は子どもの話をしなかった。


 避けていた、と言えばそうなのかもしれない。


 ただ、気まずくて口を利かなかったわけではない。


 朝になればどちらかがコーヒーを淹れた。


 直哉が夜間対応で帰りが遅くなった日は、美咲が夕食を残しておいた。


 美咲が仕事で持ち帰った資料を広げている横で、直哉が洗濯物を畳んだ。


 いつもと変わらない生活だった。


 変わったことがあるとすれば、直哉が子どものいる家庭を以前より気にするようになったことくらいだった。


 電車の中。


 スーパー。


 駅前。


 公園。


 親と手を繋いで歩いている子どもを見かけると、つい顔を見た。


 似ている。


 似ていない。


 そんなことを考える。


 けれど、この社会では外見だけで関係など分からない。


 隣を歩く大人が遺伝親なのか、養育者なのか、出産者なのか。それとも単なる生活共同者なのか。


 知る必要もない。


 それが普通だった。


 直哉自身、その普通の中で育った。


 なのに自分の子どものことになると、どうしてこんなに違うのだろうと思う。


 答えは出なかった。


 出す必要もないのかもしれなかった。


 久世文香は言っていた。


 合理的根拠を証明する必要はない。


 自分が何を選んでいるのか理解していればいい。


 直哉が選びたいものだけは、もう分かっていた。


     *


 木曜の夜だった。


 直哉が風呂から上がると、美咲がダイニングテーブルに座っていた。


 端末が一台、目の前に置かれている。


「直哉」


「ん?」


「話していい?」


 直哉は一瞬だけ動きを止めた。


「うん」


 冷蔵庫から水を取るつもりだったが、そのまま向かいに座った。


 美咲は端末を伏せた。


「考えた」


「……うん」


「センターのこと」


「うん」


 直哉はそれ以上言わなかった。


 自分から急かしたくはなかった。


「私、一案目でもいいと思ってる」


 最初の言葉は、それだった。


 直哉は何も言わない。


「二案目でも、たぶん大丈夫」


「……うん」


「三案目も、嫌じゃない」


「うん」


「そこは変わらなかった」


 美咲は直哉を見る。


「やっぱり私は、誰の遺伝子が入ってるかより、誰と育てるかの方が大事みたい」


 四日前と同じだった。


 少しだけ期待していた何かが、静かに沈んだ。


「そっか」


「うん」


「じゃあ……」


「でも」


 美咲が続けた。


「非推奨の申請、してもいいよ」


 直哉は顔を上げた。


「え?」


「直哉と私の組み合わせで」


「……いいの?」


「うん」


「なんで」


 聞いてから、直哉は自分でも変な質問だと思った。


 美咲は少し笑った。


「この前は、やれって言ってるみたいだったのに」


「いや、それは」


「分かってる」


 美咲は笑みを消した。


「ちゃんと考えたから」


「何を?」


「病気のことも。直哉が言ってたことも」


 直哉は黙って待った。


「私にとっては、一案目でもいい」


「うん」


「でも、直哉にとってはよくない」


「……うん」


「そこを、最初はあんまり重要だと思ってなかった」


 美咲は自分の指先を見る。


「別に同じ子どもじゃん、って思ってたから」


「俺には同じじゃない」


「うん。今は分かってる」


 完全に理解しているという意味ではないのだろう。


 ただ、直哉にとって重要だということを認めた。


 たぶん、そういう意味だった。


「だから」


 美咲は少し間を置いた。


「私が嫌じゃないなら、直哉が欲しい方を選んでもいいかなって思った」


 直哉の胸の奥に、安心と引っかかりが同時に生まれた。


「嫌じゃない?」


「うん」


「本当に?」


「嫌なら嫌って言うよ」


「でも、美咲が欲しいわけじゃないんだろ」


 美咲は少し考えた。


「言い方が難しいな」


「うん」


「私も子どもは欲しいよ」


「それは分かってる」


「直哉と育てたい」


「うん」


「直哉と私の遺伝的な子だったら、それも嬉しい」


 そこで一度切る。


「でも、それじゃなきゃ嫌っていうほどではない」


 直哉は小さく息を吐いた。


 やっぱり、そこは変わらない。


「だから」


 美咲が続ける。


「直哉みたいに『絶対これがいい』ではないけど」


「うん」


「『これは嫌』でもない」


「……それで申請する?」


「私はしていいと思ってる」


 直哉は美咲を見た。


「俺が欲しがってるから?」


「それもある」


 否定しなかった。


 それが少し痛かった。


「でも、それだけならしないよ」


「そうなの?」


「だって、私が嫌なのに直哉が欲しいからって子ども作るのは変でしょ」


「まあ」


「私は、選択肢として受け入れられる。その中で直哉が一番望んでるのがこれなら、これを選んでもいい」


 直哉はしばらく黙った。


「それって、美咲自身が選んだって言える?」


「言えると思う」


「俺に合わせただけじゃなくて?」


「合わせた部分はあるよ」


 あっさり認める。


「でも、二人で決めることって、普通そうじゃない?」


「……どうだろ」


「私は辛いものが食べたいけど、直哉が嫌なら別の店にする、とか」


「子どもと晩飯一緒にするなよ」


「大きさは全然違うけど」


 美咲は少し笑った。


「二人ともまったく同じものを、まったく同じ強さで欲しがらないと共同で決めたことにならない、とは思わない」


 直哉は返事をしなかった。


 それは、その通りなのだと思う。


 たぶん。


「美咲」


「うん」


「後悔しない?」


「分かんない」


 即答だった。


「分かんないのかよ」


「未来のことなんだから分かんないよ」


「まあ、そうだけど」


「一案目を選んでも後悔するかもしれないし、三案目でもするかもしれない」


「うん」


「健康な子が生まれても、別のことで大変になるかもしれないし」


 美咲は静かに言う。


「だから、後悔しないって約束はできない」


「そっか」


「直哉は?」


「俺?」


「後悔しない?」


 直哉は答えようとして、止まった。


 もし子どもが発症したら。


 久世に言われた言葉を思い出す。


 将来、本人から聞かれるかもしれない。


 なぜ、この組み合わせを選んだのか。


「……分かんない」


「でしょ」


「でも、選びたい」


「うん」


「美咲との子が欲しい」


 美咲は少しだけ目を細めた。


「分かった」


「ありがとう」


「まだ終わってないけどね」


「そうだけど」


「もう一回センター行くんでしょ」


「うん」


 美咲は伏せていた端末を表に戻した。


 画面には、生殖・養育調整センターの申請ページが開かれていた。


《共同意思確認 再申請》


「押していい?」


 美咲が聞いた。


 直哉は頷いた。


「うん」


 美咲が申請ボタンを押した。


     *


 再面談は翌週に設定された。


 今度は最初から二人一緒だった。


 前と同じ部屋。


 前と同じ机。


 久世文香も同じ濃紺のジャケットを着ていた。


「本日は、非推奨生殖計画の共同意思確認となります」


「はい」


「はい」


 久世は二人を順番に見る。


「事前にお伝えします。個別面談時の回答内容について、私から相手方へ開示することはありません」


 二人とも頷いた。


「本日は、現在のお二人の意思のみを確認します」


 画面が切り替わる。


《非推奨生殖計画》


《遺伝子提供者:佐伯直哉/篠宮美咲》


《出産者:篠宮美咲》


《養育予定者:佐伯直哉/篠宮美咲》


 直哉はそれを見る。


 初回に提出したものと、内容はほとんど同じだ。


 なのにずいぶん遠回りしたように感じた。


「まず、医療上の確認です」


 久世が説明を始める。


 二人が持つ遺伝因子。


 発症可能性。


 予測される症状。


 出生前診断で確認できる範囲。


 出生後に必要になる可能性のある医療支援。


 公的な治療支援制度。


 長期療養が必要になった場合の生活支援。


 一度聞いた内容もあった。


 それでも久世は省略しなかった。


「ここまでで、ご質問はありますか」


 美咲がいくつか医療的な確認をした。


 直哉は聞いていた。


 自分より、美咲の方が詳しい。


「分かりました」


 美咲が最後に言った。


 久世は頷く。


「次に、お子さん本人への情報開示についてです」


 直哉は少し姿勢を正した。


「出生後、今回の生殖計画に関する記録は、児童本人の身分・医療情報に紐付けて保存されます」


「はい」


「本人が一定の意思能力を持った段階で、遺伝情報および生殖計画記録へのアクセスを希望した場合、原則として開示されます」


「はい」


「今回の組み合わせが制度上非推奨であったことも、開示対象です」


 美咲も頷く。


「また、疾患が発症した場合に限らず、本人から出生経緯について説明を求められる可能性があります」


「分かっています」


 直哉が答えた。


「お二人には、その際に事実と異なる説明をする義務も、制度判断を正当化する義務もありません。ただ、ご自身の選択として説明していただくことになります」


「はい」


「よろしいですか」


「はい」


 二人とも答えた。


「では、代替案について最終確認します」


 三つの案が表示される。


 美咲と第三者。


 直哉と第三者。


 既存児童の養育配置。


 久世は一つずつ読み上げた。


「これらの選択肢が現在も利用可能であることを理解されていますか」


「はい」


「はい」


「いずれも現在申請されている組み合わせより、当該遺伝性疾患の発症リスクを低減、あるいは回避できます」


「はい」


「そのことを理解した上で、これらではなく現在の計画を希望されますか」


「はい」


 直哉はすぐに答えた。


 美咲は一瞬だけ遅れて、


「はい」


 と答えた。


 久世は記録する。


 そのわずかな間を、直哉は気づかなかったことにはできなかった。


「続いて、個別に最終意思を確認します」


 久世がまず直哉を見る。


「佐伯直哉さん」


「はい」


「現在申請されている非推奨生殖計画は、佐伯さんご本人の意思によるものですか」


「はい」


「篠宮さんからの圧力、経済的理由、生活上の不利益を避ける目的などによって、意思に反した選択をしていませんか」


「してません」


「申請を撤回した場合でも、篠宮さんとの生活共同関係や養育資格について、制度上の不利益が生じないことを理解していますか」


「はい」


「それでも申請を希望しますか」


「希望します」


「分かりました」


 久世が入力する。


 そして美咲を見る。


「篠宮美咲さん」


「はい」


 直哉は、無意識に手を握っていた。


「現在申請されている非推奨生殖計画は、篠宮さんご本人の意思によるものですか」


 美咲はすぐには答えなかった。


 ほんの数秒。


 久世は急かさない。


 直哉も口を挟まなかった。


「はい」


 美咲が答えた。


「佐伯さんの希望に応じるためだけに、意思に反した選択をしていませんか」


 直哉の胸が少し詰まった。


 美咲は久世を見る。


「意思に反してはいません」


「確認します」


 久世の声は変わらない。


「佐伯さんがこの計画を強く希望していることと、篠宮さん自身がこの計画へ同意することは別です」


「はい」


「佐伯さんが別の案を希望していたとしても、ご自身は現在の計画を選択可能なものだと判断していますか」


 美咲は少し考えた。


「はい」


「現在の計画が篠宮さんにとって唯一望ましい選択肢ですか」


 直哉は美咲を見る。


 美咲は首を横に振った。


「いいえ」


 直哉の胸の奥に、やっぱり、と何かが落ちる。


 久世はただ記録した。


「では、他の選択肢も受け入れ可能である一方、現在の計画についても、ご自身の意思として同意できるという理解でよろしいですか」


「はい」


「佐伯さんの希望がなければ選ばなかった可能性がありますか」


 直哉は久世を見る。


 そこまで聞くのかと思った。


 美咲は少し笑った。


「たぶん、あります」


 直哉は何も言えなかった。


「それでも、ご自身の選択であると考えていますか」


「はい」


「理由を伺ってもよろしいですか」


 美咲は一度、直哉を見た。


 それから久世へ視線を戻した。


「私は、どの案でも子どもを育てられると思っています」


「はい」


「その中で、直哉にとってはこの案だけが特別なんだって分かりました」


 直哉は黙って聞く。


「私は、この案が嫌ではありません」


「はい」


「だったら、二人で選ぶなら、直哉が一番大事にしてるものを残してもいいと思いました」


 久世は入力しない。


 そのまま美咲を見る。


「それを、佐伯さんの希望に従っただけとは考えませんか」


「従った部分はあると思います」


 美咲は答えた。


「でも、自分で嫌だと思っているものを受け入れたわけではありません」


 少し間を置く。


「私にとっては、一案目でもいい。二案目でもいい。三案目でもいい」


 直哉は視線を落とした。


「でも、これでもいいんです」


 美咲は言った。


「その中から、二人でこれを選ぶなら」


 久世は数秒黙っていた。


「分かりました」


 そして入力する。


 直哉には、その音だけがやけに大きく聞こえた。


「篠宮さんについても、自由意思による同意が確認されました」


 直哉はゆっくり息を吐いた。


 安心した。


 間違いなく。


 でも、その安心の中に、完全には消えない何かが残っている。


     *


 最後の画面が表示された。


《非推奨生殖計画 最終確認》


 説明内容が並んでいる。


 直哉は一項目ずつ読む。


 疾病リスクを理解した。


 代替案を提示された。


 生殖計画は制度上推奨されない。


 生殖医療開始前まで、選択は任意に撤回可能。


 出生児に対する養育責任は、遺伝的関係とは別に評価される。


 出生後の養育資格については継続的な再評価対象となる。


 そのどれも理解している。


 一番下に電子署名欄があった。


「こちらへの署名後も、実際の生殖医療開始前であれば撤回できます」


 久世が言う。


「どちらか一方から撤回申請があった場合、その時点で共同計画は停止します」


「分かりました」


「署名してください」


 直哉が先だった。


《佐伯直哉》


 名前を確認する。


 指紋認証。


 署名。


 完了。


 端末が美咲へ回る。


 直哉は見ないようにしようと思った。


 でも見てしまった。


 美咲は説明文をもう一度上から下まで流した。


 急がない。


 そして最後に指を置いた。


《篠宮美咲》


 認証。


 署名。


 画面が変わる。


《双方の署名を確認しました》


 久世が端末を受け取った。


「では、申請処理を行います」


 数秒。


 長く感じた。


 直哉は隣を見る。


 美咲は画面を見ている。


 特別な表情はしていない。


 喜んでいるわけでもない。


 後悔しているようにも見えない。


 ただ、結果を待っている。


 やがて表示が切り替わった。


《非推奨生殖計画申請》


《申請者:佐伯直哉/篠宮美咲》


《状態:受理》


 久世が確認する。


「申請を受理しました」


 直哉は、すぐには何も言えなかった。


 ここまで来たかった。


 制度に拒否されたわけではない。


 誰かと争ったわけでもない。


 禁止を破ったわけでもない。


 ただ説明を受けて。


 考えて。


 二人で決めて。


 申請した。


 それだけだ。


「今後、医療部門から初回日程の案内があります」


 久世が説明を続ける。


「検査内容によっては追加相談が必要になる場合があります。また、先ほどお伝えしたとおり、処置開始前であればいつでも計画を停止できます」


「はい」


「何かご質問はありますか」


 直哉は美咲を見る。


 美咲は首を振った。


「ないです」


 直哉も答えた。


「俺も大丈夫です」


「分かりました」


 久世は資料を閉じる。


「では、本日の手続きは以上です」


 二人で立ち上がった。


「ありがとうございました」


 直哉が頭を下げる。


 美咲も続いた。


「ありがとうございました」


 久世は最後まで、祝福の言葉を言わなかった。


 おめでとうございます、とも。


 良かったですね、とも。


 当然なのかもしれない。


 ここで確認されたのは、良い選択をしたということではない。


 自分たちで選んだということだけだ。


     *


 センターを出る。


 前に来たときと同じ道を、駅へ向かって歩いた。


 空は薄く曇っていた。


「終わったな」


 直哉が言う。


「申請はね」


「そうだけど」


「これからでしょ」


「分かってるよ」


 美咲が少し笑った。


 二人の間を、自転車が一台通り過ぎる。


 横断歩道の前で止まった。


 直哉は美咲の手を取った。


 美咲は少しだけ直哉を見て、そのまま握り返した。


 信号が赤のまま、しばらく変わらない。


「美咲」


「なに?」


「ありがとう」


 美咲は前を向いたまま答えた。


「うん」


 それだけだった。


 直哉は少し迷ってから言う。


「本当に、ありがとう」


「二回目」


「いや、なんか」


「いいよ」


 美咲が言う。


 その言葉に、直哉は一瞬だけ四日前を思い出した。


 ――いいよ?


 あのときと同じ声だった。


 信号が青になる。


 二人で歩き出す。


 少し進んだところで、美咲が言った。


「そんなに欲しかったんだね」


「何が?」


「私との子」


 直哉は美咲を見る。


 美咲は前を向いている。


「欲しいよ」


 直哉は答えた。


「ずっと、そのつもりだった」


「そっか」


 美咲は小さく頷いた。


 手は離さなかった。


 直哉も離さなかった。


 二人はそのまま駅へ向かった。


 美咲は最後まで、


 私も、


 とは言わなかった。

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