第1話「二人の子ども」
篠宮美咲が「子ども、そろそろ考える?」と言ったのは、土曜の朝だった。
佐伯直哉は、トーストに塗りかけていたバターを止めた。
「そろそろって?」
「そろそろは、そろそろ」
「いや、それは分かるけど」
向かいに座った美咲は、マグカップを両手で持ったまま笑った。
「直哉、前に言ってたじゃん。三十になる前後くらいには、一回ちゃんと考えようって」
「ああ」
「来年三十でしょ」
「……そうだった」
「自分の年齢くらい覚えてなよ」
呆れた声だったが、本気で呆れているわけではない。
六年付き合っていれば、その程度は分かる。
直哉はバターを塗り終えた食パンをかじった。
二十九歳。
民間のインフラ系企業でシステム運用をしている。派手な仕事ではないが、収入は安定している。夜間対応が入ることはあるものの、それも月に数回程度。美咲は一つ年下で、医療機器メーカーの品質保証部門に勤めていた。
二人で暮らし始めて三年になる。
駅から徒歩十二分の二LDK。特別広くはないが、二人で住むには十分だった。生活費は共通口座に毎月決まった額を入れ、残りは各自で管理する。料理は美咲の方が少し多く、洗濯は直哉の担当。掃除は気づいた方がする。
それで大きな不満もなく三年続いている。
「美咲は欲しいの?」
聞くと、美咲は少しだけ考えた。
「欲しいと思うよ」
「そっか」
「直哉は?」
「俺も」
迷わず答えた。
美咲が小さく笑う。
「じゃ、相談予約取ろうか」
「うん」
それだけだった。
結婚するとか、しないとか。
そういう話ではない。
二人は生活共同関係の登録こそしているが、法的な婚姻登録はしていなかった。必要性を感じていなかったからだ。
財産関係も、医療上の代理権も、相互扶助の範囲も、それぞれ個別に登録できる。わざわざ複数の権利関係を一括して婚姻という形にまとめる人間もいるが、直哉たちはそうしなかった。
それでも六年間、一緒にいる。
そしてこれからも一緒にいるつもりだった。
だから、その延長線上に子どもがいることも、直哉にとってはごく自然なことだった。
*
生殖相談の予約は、美咲が取った。
希望日の入力、双方の個人識別番号、遺伝情報利用への同意、生殖計画の概要。
入力項目は多かったが、美咲は慣れた手つきで埋めていった。
「出生後の養育希望、共同でいいよね」
「うん」
「出産希望者、私」
「そこはまあ、そうなるよな」
「外部出産者を希望してもいいけど?」
「いや、必要ないなら美咲でいいだろ」
「私もそのつもり」
画面を送ってくる。
直哉は自分の端末で内容を確認し、電子署名をした。
最後に表示された項目だけ、少し長かった。
《遺伝的組み合わせ評価の結果により、希望された生殖計画とは異なる代替案が提示される場合があります》
その下に、
《評価結果は生殖そのものを禁止するものではありません。ただし、公的支援・医療提供・養育計画について追加確認が必要となる場合があります》
と書かれている。
「これ、みんな出るやつ?」
「たぶん」
美咲が自分の端末を覗き込む。
「標準説明って書いてある」
「じゃいいか」
直哉は同意を押した。
この時点では、本当にその程度にしか考えていなかった。
遺伝的組み合わせ評価という制度自体は知っている。
学校でも習う。
生殖は恋愛とは別の意思決定であり、出生する子どもの健康上の利益を考慮して計画されるべきである。
それだけの話だ。
直哉の両親だって、二人ともが直哉の遺伝的な親というわけではない。
父に代わって遺伝子を提供した人物には、直哉も会ったことがなかった。
それを不自然だと思ったこともない。
自分が育った家庭では、父は父だった。
血が繋がっているかどうかを確認する必要などなかった。
だから制度そのものに反発したこともない。
合理的だと思っていた。
*
予約日。
二人が訪れたのは、区の中心部にある生殖・養育調整センターだった。
病院とは少し違う。
医療部門も入っているが、建物そのものは行政施設に近かった。白を基調にした広いロビーに、受付端末が何台も並んでいる。
直哉たちは予約番号を入力し、個人認証を済ませた。
待ち時間は十分ほどだった。
「佐伯直哉さん、篠宮美咲さん」
名前を呼んだのは、四十代くらいの女性だった。
黒髪を肩のあたりで揃え、濃紺のジャケットを着ている。
「本日の担当をいたします、久世文香です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「お願いします」
案内された部屋は、診察室というより小さな会議室に近かった。
机を挟んで三人。
壁際に大きなディスプレイが一枚。
久世は端末を操作しながら言った。
「まず、今回のご相談内容を確認します。お二人は現在、生活共同関係登録をされていて、同居期間が三年二か月。今後も共同生活を継続する予定で、生殖後は共同養育を希望されている。こちらで間違いありませんか」
「はい」
「はい」
「出産については篠宮さんご本人が希望。外部出産者の利用希望なし。遺伝子提供者も、お二人を希望されています」
「そうです」
直哉が答えた。
久世は頷き、画面を切り替える。
「ではまず、養育関係についてお伝えします」
直哉は少し姿勢を正した。
「事前評価の範囲では、お二人とも基礎養育適格性に問題はありません」
その言葉に、思った以上に安心した。
別に疑っていたわけではない。
だが、自分たちの暮らしを第三者から評価されるというのは、やはり少し緊張する。
「佐伯さんは勤務時間に多少の変動がありますが、現在の就労状況であれば支援計画の範囲内です。篠宮さんも勤務・生活状況とも安定しています。住居についても、現時点で重大な問題はありません」
「今の家でも大丈夫なんですか?」
美咲が聞いた。
「出生直後であれば問題ありません。ただし、お子さんの成長に応じて再評価はあります。これは皆さん同じです」
「ですよね」
「共同養育についても、お二人の生活関係や現在の支援環境から見て、非推奨となる要素はありません」
久世の言い方は淡々としている。
だが冷たい感じはしなかった。
必要なことを、必要なだけ説明する。
そういう人なのだろう。
「ですので、養育についてはこのまま申請を進めていただけます」
美咲が直哉を見る。
直哉も視線を返した。
思わず少し笑った。
良かった。
たぶん美咲も同じことを考えている。
「ただし」
久世が続けた。
「生殖計画について、別途ご説明があります」
ディスプレイに新しい画面が表示された。
直哉には何のグラフなのか、最初は分からなかった。
青い棒がいくつか並び、そのうち一本だけが赤い基準線を越えている。
「お二人の遺伝的組み合わせについて、事前検査結果が出ています」
直哉は画面を見る。
美咲も同じように顔を向けていた。
「現在確認されている範囲で、お二人とも単独では健康上の問題はありません。ただ、特定の遺伝性疾患に関連する因子を双方が保有しています」
「……保因ってことですか」
美咲が先に聞いた。
医療関係の仕事をしているだけあって、直哉より飲み込みが早い。
「はい。ただし、お二人とも発症者ではありません」
久世が画面の一部を拡大する。
「問題となるのは、お二人の遺伝情報を組み合わせた場合です。出生児について、重篤な症状を伴う疾患の発症確率が、一般集団および推奨基準を大きく上回ります」
直哉は数字を見る。
それが高いのか低いのか、すぐには判断できなかった。
「これって……どのくらいなんです?」
「健康な出生が見込めない、という意味ではありません」
久世は先回りするように言った。
「その疾患を発症せずに出生する可能性の方が高いです」
「じゃあ――」
「ただし」
また、その言葉だった。
「他の組み合わせを選択できる状況で、あえてこのリスクを取ることを制度として推奨できる水準ではありません」
直哉は少し黙った。
「……禁止ではないんですよね」
「はい」
久世は即答した。
「禁止対象ではありません」
「じゃあ、俺たちがそうしたいって言えば」
「申請は可能です」
それを聞いて、直哉はほんの少し肩の力を抜いた。
なら、問題ない。
リスクがある。
でも禁止ではない。
説明を受けて、それでも二人が選ぶならいい。
そういう話だと思った。
隣を見る。
美咲はまだ画面を見ていた。
表情は読めない。
「ただ」
久世はそこで一度言葉を切った。
「当センターとしては、お二人の現在の希望内容をそのまま進めることは推奨しません」
直哉は久世を見る。
「お二人には、別の生殖計画を含めて検討していただきたいと考えています」
「別の?」
「はい」
久世は次の資料を表示した。
そこには三つの項目が並んでいた。
直哉は一番上だけ読む。
《代替生殖計画案A》
その下に、
《出産者:篠宮美咲》
《遺伝子提供者:篠宮美咲/第三者提供者》
《養育者:佐伯直哉/篠宮美咲》
と書かれていた。
直哉はしばらく意味を理解できなかった。
理解したあとも、すぐには言葉が出なかった。
「……これ」
「はい」
「俺じゃない人の遺伝子を使うってことですか」
「選択肢の一つです」
久世は変わらない口調で答えた。
「もちろん、佐伯さんを遺伝子提供者として、篠宮さん以外の提供者を組み合わせる案もあります。あるいは、生殖を行わず、養育配置を希望している児童をお二人で受け入れる方法もあります」
直哉は資料から目を離せなかった。
どれも、理屈は分かる。
どれも、たぶん合理的だ。
自分と美咲が一緒に子どもを育てる、という点だけを見れば、何も失われていない。
それでも。
「……俺たちの子じゃないですよね」
自分でも、思っていたより低い声が出た。
久世は否定も肯定もせず、ほんの少し首を傾けた。
「『お二人の子』という表現について、何を指しておられますか」
直哉は顔を上げた。
「何って……」
「共同養育児という意味であれば、どの案でもお二人のお子さんです」
静かな声だった。
「遺伝的な意味で、佐伯さんと篠宮さん双方の遺伝情報を継承した子ども、という意味でしたら――」
久世は一拍置いた。
「はい。その条件は満たしません」
直哉は何も言えなかった。
その横で、美咲も黙っていた。
久世は二人を順に見てから、資料を閉じなかった。
「本日は結論を出していただく必要はありません」
そう言ってから、もう一度、最初の検査結果を画面に戻す。
赤い線を越えた一本の棒。
「ただ、現在のお二人の組み合わせについて、正式な評価結果だけ先にお伝えします」
直哉は無意識に、美咲の方を見た。
美咲もこちらを見た。
久世文香は、丁寧な口調のまま告げた。
「佐伯直哉さんと篠宮美咲さんの生殖組み合わせは、非推奨です」




