15 デビュー
リメイク版ですが、特に違いはありません。
学校へ続く桜並木を見上げ、菜穂は目を細めた。今日から高校生になる。これから自分はどんな高校生活を送るのだろうか。不安よりも期待の方が大きく、楽しい高校生活を想像するだけで胸が躍った。
「菜穂! お待たせ! ごめん、遅くなって」
声を掛けてきた人物を見て、菜穂は微笑む。スーツを着た恵美だった。
「お姉ちゃん! うんうん、大丈夫だよ」
恵美は、足の先から頭の先まで菜穂を眺め、感慨深そうに頷く。
「そんなに見ないでよ、恥ずかしい」
「いいじゃん、別にぃ。菜穂も大きくなったな、と思ったら嬉しくてさ。似合ってるじゃん、その制服。可愛いよ」
「ありがとう! お姉ちゃんもそのスーツ似合ってる。仕事ができそう」
「できそう、じゃなくて、できんのよ」
「そうだったね」恵美は高校卒業後、公務員として働いている。「でも、仕事の方は大丈夫なの?」
「可愛い妹のためだから、問題ないさ。卒業式に行けなかった分、今日は絶対に来ようと思って、前々から休みをもらえるよう、お願いしていたからね。折角の晴れ舞台だと言うのに、祝ってあげる人がいないなんて、寂しいから。どうせ、あいつは来ないだろうし」
「一応、声は掛けたんだけど」
「無駄、無駄。あいつが来るわけないじゃん。だって、私たちよりも自分のことの方が大事な奴だよ? 今までだって、あいつがこういう所に来ることはなかったじゃん」
「うん。そうだけどさ……」
恵美の言う通り、今まで父親が学校の行事に来たことはない。だから今日も来るはずがない。それでも、もしかしたらを期待する自分がいた。なぜ、期待するのかわからない。そんな自分を馬鹿だな、とは思っている。
「はぁ……。菜穂は昔から、甘いと言うか、何と言うか。そんなんじゃ、あのクズみたいな悪い男に引っかかっちゃうよ?」
「き、気を付けるよ」
「だいたい、あいつはさぁ――」
と、口を開いた恵美であったが、大きく目を見開き、絶句した。どうしたのだろう? 恵美の視線の先に目を向け、菜穂はその理由がわかった。
父親が立っていた。海でさまようクラゲみたいに人混みの中にいた。父親は辺りをきょろきょろ見回していた。だから思わず、菜穂は「パパ!」と声を上げ、手を振った。
父親が気づいた。口角がわずかに上がった。初めて、いや、久しぶりに見る父親の笑顔だった。父親は引きずるような足どりで、二人の下へやってきた。歩み寄る父親の姿を見て、菜穂の顔に喜色が広がる。その手に、いつもの本を持っていたが、気にならなかった。
「パパ! 来てくれたんだ」
「ああ」
父親は照れくさそうに頬を掻く。
「ありがとう。でも、どうして?」
「たまにはな」
「……今さら父親面かよ」恵美の目は侮蔑を孕んでいた。語気も強い。「お前のせいで、ママも私も菜穂も不幸になったのに、今さら」
父親は申し訳なさそうに眉根をよせ、目を伏せた。
「お、お姉ちゃん」
菜穂が戸惑いながら声を掛けると、恵美は舌打ちした。
「……ごめん、菜穂。ゴミの臭いで気分が悪くなってきたわ。また、後でね」
恵美は、菜穂には微笑みを、父親には憎悪の視線をぶつけ、その場から去った。
「ごめんね、何か」
「いや、いいんだ。恵美の言う通りだから」
「でも私は、別に、不幸になんかなってないから、大丈夫だよ」
「今はまだ、起きていないというだけの話だ。いずれ、起きる。だから、俺はお経を読むんだ」
その本を力強く抱えなければ、もっとカッコいいのに、と菜穂は苦笑する。
父親は優しい眼差しで菜穂を見つめた。菜穂はこそばゆさを感じる。この前はどうでも良さそうだったくせに、と思う。
「菜穂、おめでとう。本当に、本当に、おめでとう」
「もう、おおげさだよ。でも、ありがとう」菜穂は時計を確認する。「あ、そろそろ、行かなきゃ」
「そうか」
「終わっても、待っててね」
「ああ、わかった」
「んじゃね」
菜穂は軽く手を振って、教室へ向かった。
歩きながら菜穂は思った。私って、ほんと馬鹿だなって。普段やらないことをしてくれただけで嬉しく思ってしまう。確かに恵美の言った通り、今さら父親面かよ、と思う気持ちがないわけでもない。今まで無関心を貫き、それに対して悲しいと思ったことはたくさんある。でも、だからこそ、喜びが勝る。あの無関心だった父親が、ようやく自分に関心を向けてくれたのだ。そう考えると、口元が自然とほころぶ。
でも、どうして急に態度を変えたのだろう?
そんな風に、父親のことを考えていた時だったから、だから――。
「あの、杉本さん?」
――彼に声を掛けられ、彼の話を聞いたとき、彼に対し強い興味を抱いた。
「はい」
「杉本さんですか?」
「はい。そうですけど、何ですか?」
初めて見る少年だった。精悍な顔つき。ちょっと、カッコいいと思ってしまった。
「すみません、突然。ちょっと、お聞きしたいことがあるんですけど、あなたのお父さんって、杉本義則さんですか?」
「はい。そうですけど。父が何か?」
父親を知っている? 何で?
「あの、父に何か用ですか?」
「あ、いや。特に用とかはないんですけど。ずいぶんと変わったなぁ、と思いまして」
「変わった?」
しかも、昔の父親を知っているような口ぶり。どういうこと?
「あなたは父のこと知っているんですか?」
「知っているというか、その、まぁ、昔、色々ありまして……」
「へぇ。詳しく教えてくれませんか」
そのとき、チャイムが鳴った。少年の目が輝く。あ、逃げる気だ。
「すみません。教室に行かなきゃ」
足早に遠のく少年の背中を眺め、菜穂は思った。彼から父親のこと、もっと聞かなくちゃ、と。
それが菜穂にとっての少年――杉下真治との出会いだった。




