25.杉本菜穂⑤
菜穂の夢の中で菜穂の大切な人が次々と死んでいく。
怪獣の次は、宇宙からのレーザービームだった。恵美がビームで焼かれて死んだ。次は地面の裂け目に父親と叔母が落ちた。次は飛行機事故でニャースの皆が死んだ。その次は電車事故で中学の友人が目の前で跳ね飛ばされ、その次も幼馴染たちが目の前で車に轢き殺された。
死に方がどんどん現実に近づく。いや、死に方だけではない。音、臭い、感触なんかも感じるようになってきた。
今日の夢では再び真治が死んだ。通り魔から菜穂を庇い、包丁で刺された。倒れかかる真治の重みを感じた。血の臭いも、ぬめりと生温かい感触もある。
菜穂は声が出せなかった。叫ぶことすらできず、ただ大切な人が死んでいく様を見ているしかなかった。そしてその場面には決まってあの男がいた。顔中が腫れている男だ。男は菜穂を見て、言う。
「お前のせいだ。お前のせいで死んだんだ」
菜穂はハッと目覚める。視線の先にあるのは見慣れた天井だった。菜穂は大きく息を吐き、先ほどまでの光景が夢であることを喜んだ。額に手を当てる。嫌な汗を掻いていた。
「どうしたらいいんだろう……」
一週間ほど続く悪夢が、最近の菜穂の悩みだった。毎朝目覚める度に、自信の無力を痛感する。最初はたまにある悪夢くらいしか思っていなかったが、こう毎日続くと、別の何かであるような気がしてならなかった。例えば、大切な人が死ぬ予兆。美術館で危険な目にも遭ったし、雑貨屋でお婆さんが言っていたことはこういうことなのか? と最近よく思う。
どうすればいいのだろう?
菜穂は考える。しかし一人で考えても答えは出せなかった。誰かに相談した方がいいかもしれない。最近、寝不足だし、このままでは頭がおかしくなってしまう。
では、誰に相談すればいいのか?
菜穂は時間を確認する。いつまでも寝ているわけにはいかない。重い体を引きずるように食卓へ向かった。食卓には父親が座っていた。前までは朝のお経を唱えていたが、最近は一緒に朝食を食べることが多い。確か、入学式後のことだ。
「おはよう、菜穂」
「うん。おはよう」
菜穂は父親の対面に座る。目の前には、いつも通りの精進料理がある。味気ないご飯。でも作ってもらっているため、文句は言えない。菜穂は「いただきます」と朝食を食べ始めた。
二人の間に会話は無かった。元々菜穂から話しかけないと会話にならない関係である。その菜穂に喋る気がないから、自然と静かな食卓となる。
菜穂は食べながら思った。父親に相談してみようか、と。今回の場合、もしかしたらお経を唱えることが良い方向に作用するかもしれない。父親は自分の罪を謝罪するためにお経を唱えているらしいから、自分もお経を唱えれば、許してもらえるかもしれない。
そこまで考えて、菜穂は馬鹿らしいと頭を振った。お経を唱えれば許してもらえるとか、そんなことあるわけない。そもそも何か悪い事をした覚えもない。今まで常識的に行動してきた。しかし毎日あんな夢を見ていると、知らないところでもしかしたら、と考えてしまう。
「菜穂」
不意に父親から声を掛けられる。
「何?」
「何か悩んでいるのか?」
菜穂は驚いて顔を上げる。父親からそんな言葉が出るとは思わなかった。父親は心配そうな目つきで自分を見ていた。
「……べつに。何でもないよ」
菜穂は素っ気なく答え、朝食に視線を落とした。ここで父親に期待しても、後で後悔するのは自分だ。だから、父親には相談しない。
菜穂は登校中も相談相手について考えていた。心配してくれたし、ニャースのメンツが一番話しやすいかも。恵美にも相談した方がいいか。ただ、少し気が引ける。父親を罵って、あいつのそばにいるからそんな夢を見るんだ、と言う姿が容易に想像できる。
あとは……真治。真治になら話せる。でも何となく、真治には相談したくなかった。弱い自分を見せた方が女の子として可愛げがあるかもしれないが、真治には弱い自分を見せたくなかった。
だから、「おはよう、菜穂さん」と真治に声を掛けられたときには笑うしかなかった。いつも変なタイミングで自分の前に現れる。
「おはよう、真治」
そのとき、真治の顔が若干引きつっていた。緊張しているみたいだった。何かあるんだろうか、と思ったが、その後の言動でその理由を察した。
真治は自分のことを心配していたのだ。「菜穂さん。最近、元気ないみたいだけど、何かあった?」の一言を言いだすのに、勇気が必要だったみたいだ。
菜穂はずるいなぁと思った。いつもは自分に対して適当な反応で、興味がないように振る舞うくせに、困っていたらちゃんと助けようとしてくれるんだもん。そんな風に対応されたら、嫌でも悩みを話してしまう。
「最近、同じ夢を毎日見るんだ」
菜穂は自分の悩みを話した。悩みを言葉にしてみると、不思議なことに、与太話に聞こえてきた。そんなわけないと冷静な自分がいる。夢が現実になるなんて。しかし、なら、どうしてこんな夢を毎日見るんだと苛立つ自分もいて、「でも、真治に何ができるの?」とついつい冷たく当たってしまった。
言ってから自分の過ちに気づく。菜穂は真治に対し申し訳なく思ったが、掛けるべき言葉が見当たらず、逃げるように背を向けた。
私って馬鹿だ、と菜穂がため息を吐いたとき、けたたましいクラクションの音が聞こえた。
それからの数秒間、真治の胸の中で、不吉な音を聞き続けた。
「もう、大丈夫だ」
と真治に言われ、辺りを見回す。真治は大丈夫と言ったが、本当に大丈夫なのだろうか。そんな不安を覚えてしまう惨状が目の前に広がっていた。
やはりあの夢は現実になる。自分の大切な人が。
「菜穂さん」
ドキッとする。目の前に真治の顔がある。どうした、急に。
「俺、わかったんだ。菜穂さんのためにできること。確かに俺は、司教みたいに、菜穂さんが抱える悩みを解決できるような気の利いたことは言えない。でも俺は、体を張って菜穂さんを守ることができる。今も大事故から菜穂さんを守ることができた。それが、俺ができることなんだ。体を張って菜穂さんを守る。受け入れ難き運命が、菜穂さんに牙をむくつもりなら、俺がその牙をへし折ってやる。だから、困ったら、俺を頼れ。俺が菜穂さんを守るから」
正直、何を言っているのかわからなかった。だって、真治の顔が近いんだもん。それどころじゃない。でも、「守る」というセリフと真剣な目つき、そして身を挺して自分を守ってくれたことから、菜穂は真治の気持ちがわかった。
真治は多分、私のことが――なのだ。
だから、こんなにも一生懸命、自分を守ってくれたのだ。そう考えたら嬉しくなって、そして、それから、それから……。
それから、どうなったんだっけ?
菜穂は顔を上げる。見慣れた玄関の扉が目の前にあった。
あれ? 家? 何で?
辺りを見回す。暗かった。もう夜か。それに目が痛い。
何で目が痛いんだ?
ああ、そうだ。さっきまで泣いていたんだ。電車の中でみっともなく。見知らぬお姉さんに介抱されたんだっけ。本当に申し訳ない。あの馬鹿が、変なことを言わなければ。
あの馬鹿? ああ、そうだ。真治だ。あの馬鹿が最後にあんなことを言わなければ。あんな、私が悪いみたいな言い方をしなければ。そしたら、そしたら……ただ、勘違いした自分を責めるだけで済んだのに。あんな風に言われたら、私が逃げたみたいじゃん。逃げたいわけじゃなかったのに。ただ、一緒にいたかっただけなのに……。
菜穂の目に再び涙が浮かぶ。心の苦しみは涙でしか表現することができないのか。
菜穂は慌てて家に入った。
「おかえ――どうしたんだ!」
玄関に父親がいた。菜穂は顔を伏せる。泣き顔は見られたくなかった。
「泣いているのか! ちょっと、待ってろ! タオルを持ってくる」
父親は不自由な足を必死に動かし、タオルをとって、戻ってきた。
「ほら、これ使え」
「……ありがとう」
菜穂はタオルを目に当てた。
「心配したんだぞ、電話にも出ないし。聞いたぞ、今日も事故に遭ったんだってな」
「うん、まぁ」
「なぁ、菜穂……」
と言って、沈黙が生まれる。菜穂がタオルから目を離すと、戸惑う父親の姿があった。話すのを躊躇っているようなそんな感じ。何か、いつもと雰囲気が違うような……。
「何?」
「あ、あのな。お、お経でも唱えるか?」
「は?」
気のせいだった。
「いや、菜穂は何も悪いことをしてないかもしれないけどさ、でも」
「……馬鹿なんじゃないの」
菜穂は低く冷たい声で言った。侮蔑を孕んだ目で父親を睨む。
「馬鹿だと? 父親に向かって、何てことを言うんだ!」
父親が珍しく、眉を吊り上げる。
「そうでしょ。お経なんて唱えたって、何も変わらないよ」
「そんなことない。お経を唱えれば、幸せになれるんだ! ここにも、そう書いて」
と父親が差しだした本を、菜穂は「ふざけんな!」と叩き落とした。
「ああ、馬鹿! お前!」
「馬鹿はお前だ! いっつも、いっつも、困ったらお経、お経って、馬鹿なんじゃないの! そんな、そんなお経を唱えるだけで幸せになれるなら、今頃皆幸せだよ! ママだって死ななかったし、お姉ちゃんだってこの家を出て行かなかった! それに、それに私だって……」
「ああ、そうだ。ママが死んでしまったのは、俺が悪いからだ。だから、お経を」
「お前の家族はママだけなのかよ! お姉ちゃんや私は違うのか!」
「そ、それは……」
「一生、自分のためにお経でも唱えてろよ、この馬鹿! あんたなんて、あんたなんて、私の父親じゃない!」
菜穂は乱暴に父親を押し退けると、階段を駆け上がった。
荒々しく部屋の扉を閉め、扉の前で崩れ落ちる。涙が止まらなかった。鼻水も嗚咽も、悔しさも怒りも、何もかもが止まらなかった。
菜穂は暗い部屋の中で泣き続けた。大声を出して、ただひたすらに泣き続けた。こんなに泣いたのは、久しぶりのことだった。
それからどれほど泣き続けたのだろう。時間はわからない。菜穂は体育座りになって、腕に顔を埋めていた。だいぶ落ち着いてきたが、嗚咽はまだ、止まらなかった。
コンコン、とノックがある。
「菜穂、俺だ。入っていいか?」
「……駄目」
「……そうか。なら、聞いてくれ。さっきは悪かった。俺も熱くなってしまった。すまん。菜穂のことも恵美のことも俺は大事に思っている。だから、その、すまん」
菜穂は何も答えなかった。
父親が部屋の前から移動し、階段を下りる音が聞こえたところで、「信じるかよ、ばーか」と呟いた。
やはり父親はいつもの父親だった。お経に頼れば、世の中のことが全てうまくと考えている単細胞。あんな男の目を覚ますためには、どうしたらいいのか。
そばに掃除機があった。掃除機を見て、自分が死んだら、さすがにあの男も気づくだろうと思った。お経を読んだところで幸福にはなれないことを。
菜穂は掃除機の電源コードを伸ばす。この前、ニュースで見た。人は掃除機のコードでも首を吊って死ぬことができる。掃除機ではないが、何かのコードで首を吊った人がいたらしい。
菜穂は自分の首にコードを巻き、扉の取っ手に結ぼうとした。が、菜穂の手が止まる。
悲しそうに自分を見つめる真治の顔が思い浮かんだ。真治は自殺した自分を怒ったりせず、ただただ、悲しそうに見つめている。
「どうして、あんたが、そんな顔をするのさ。私のことなんてどうでもいいくせに」
そうだ。真治にも見せつけてやろうと思った。枕元で、悲しむ真治を笑ってやろうと思った。そしていざ、結ぼうとしたが、できなかった。
真治だけではない。父親も悲しんでいる。自分を苦しめる二人が自分の死を悲しんでいる。そんな状況をざまぁと笑うことなんてできなかった。
「はぁ……」と大きなため息を吐く。「私って本当に馬鹿というか何というか。しょうもない男しか周りにいないんだな……」
菜穂は苦笑し、コードを外した。
立ち上がり、部屋の電気を点ける。棚に飾ってある熊の人形とカバンのスマホを手に、ベッドに転がった。
菜穂は仰向けになって、人形を掲げる。その人形は恵美からもらったもので、サンタがこの世にいないことを教えてくれた人形でもある。
この人形をもらったとき、恵美とこんなやりとりがあった。
「部屋を掃除していたら、この人形がでてきたから、菜穂にあげる」
「わぁ、いいの。ありがとう! この人形、どうしたの?」
「あいつからもらったの。クリスマスプレゼントだって」
「あいつ? もしかして、サンタさん!」
「は? サンタさんなんているわけないでしょ。あいつって、パパのことよ」
それ以降菜穂は、現実を見ようと思った際、この人形を介し、自分と対話するのだった。
菜穂は人形を左右にゆらす。喋っているかのように。
「菜穂ちゃん、菜穂ちゃん。この世に自分のことを理解してくれる素敵な父親なんていないんだぞ」
「うーん。やっぱりそうなのかな。入学式のときは期待したんだけど」
「ただの気まぐれさ! ただの気まぐれに喜ぶなんて、菜穂ちゃんもまだまだ子供だなぁ」
「うん。そうだね。やっぱりパパには期待しない方がいいのかもね」
「そうだよ。あとね、菜穂ちゃん、菜穂ちゃん。菜穂ちゃんは悪くないよ。菜穂ちゃんを勘違いさせるようなこと言ったあの真治ってやつが悪いんだよ」
「うん。そうだね。あんな状況で、あんなこと言われたら、誰だって勘違いしちゃうよね」
「そうだよ! だから、気にしないで!」
「わかったよ、ありがとう、クマ吉!」
菜穂はクマ吉を枕の隣に置き、腹這いになって、スマホを起動した。確かに父親からの電話が何件かある。それに弥恵たちからもメッセージが。しかし菜穂はそれらを後回しにして、アルバムを開き、写真を探した。
「あった」
菜穂が見たかった写真は入学式のときに撮った写真だ。微笑む父親がいて、不機嫌な恵美がいる。そして、その間には満面の笑みの自分がいる。この写真を見る度に、口元がゆるむ。この時間がずっと続けばいいのに、と思う。
「でも、世の中そんなに甘くないんだよね」
菜穂は寂しげな顔で戻るボタンを押し、次の写真を探す。
次の写真は真治だった。一緒にアイスを食べに行ったときの、間抜け面でアイスを食べる真治。でも、ちょっぴり可愛かったりする。
菜穂はじっと真治の顔を見つめる。
「朝のお前は、最高にカッコ良かったのにな。王子様が現れたと本気で思ったのに」
つんつん、と爪先で真治の顔を突く。そうしているうちに、無性に腹が立ってきて、菜穂はお絵かき機能で落書きする。真治の顔にいっぱい線を描き、『バカ』と矢印で示す。描いているうちに楽しくなって、真治に見せてやろうと思い、写真を保存する。
メッセージアプリを開き、写真を選択する。あとは、『送信ボタン』を押すだけだ。菜穂は送信ボタンに指を伸ばすが、あと数ミリというところで指が止まってしまう。あと数ミリ動かせば写真が送れるのに、菜穂の指はホームボタンを選択し、菜穂は枕に顔を埋めるのだった。




