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26.杉本菜穂⑥

 翌朝。菜穂は憂鬱な顔で目を覚ました。悪夢は見なかったが、真治と学校で会うことを考えると、気重になる。今日は何とかして休めないか、そんな風に考えてしまう。


 コンコン、とドアをノックする音。


「菜穂、起きてるかー」


 と父親の声。


「今、起きた」

「そうか。遅いから心配した。ご飯、できてるぞ」

「あ、うん。行く」


 菜穂は時間を確認する。いつもより遅い目覚めだ。ここで休みたいなんて言ったら、父親にいらぬ心配を与えてしまうだけだろう。それはそれで面倒だ。


 食卓に向かう。父親はやや戸惑った顔で「おはよう」と言った。昨日のことがまだ尾を引いているようだ。


「おはよう」


 それは菜穂も同じだった。父親に合わせる顔が無くて、素っ気なく答える。


 いつも通りの朝食。菜穂は「いただきます」と食べ始める。


 菜穂が黙々とご飯を食べていると、父親が言った。


「菜穂、何か食べたいものはないか?」


 何か食べたいもの。今はそんなに無いかな。食べたいという気分でもないし。でも、父親に対する、ささやかな嫌がらせとして、「魚」と言った。


「魚? 魚ってお前……」

「いいでしょ、べつに。どうせ食べるのは私だけ何だから」


 父親はもごもごと口ごもったが、菜穂は無視して食事を続けた。


 それから学校に行くまでの間、菜穂はずっと緊張していた。真治に対し、どんな顔をすればいいかわからなかったからだ。しかし学校に行って、拍子抜けした。真治が学校を休んだのだ。急用だと担任は言っていた。


「なんだよ、あいつ。マジでムカつくなー」


 菜穂は頬を膨らませる。振り回したいのに、あの男には振り回されてばかりいる。その状況は喜ばしくない。


「なぁ、菜穂」と弥恵に声を掛けられる。「少年は今日、休みなのか?」

「みたいだね」

「ふぅん。そうか」

「何か用でも?」

「少年に昨日自転車を貸したんだが……」

「あ、そうだったね。なら、後で連絡しておくよ」

「ありがとう。あと、菜穂」

「何?」


 弥恵はじっと菜穂の顔を見た。探るような視線で。そして「何でもない。忘れてくれ」と笑った。言われなくても、弥恵が求めているものがわかった。だから菜穂は言った。


「……楽しいことなら何もなかったよ」

「……そうか。それは余計なことをしてしまったかな」

「うんうん。やえっちには感謝している。悪いのは、あの馬鹿だから」


 予鈴が鳴り、弥恵は自分の席に戻った。菜穂はスマホを取り出し、メッセージを送ろうとした。しかし未送信の画像を見て、気が変わった。直接文句を言うことにした。


 二時間目が終わると空き教室へ。そこで真治に電話を掛ける。発信ボタンを押したときは強気だったが、コールが鳴るにつれ、弱気になる。真治はちゃんと出てくれるのだろうか。


 弱気になってどうすると叱咤したところで真治が電話に出る。


「……もしもし、真治」


 ちょっとぶっきらぼうに言ってみる。


 しかし真治からの反応がない。


 あれ? もしかして、こんな言い方じゃ駄目だった。


 菜穂は途端に不安になって、しゅんとなる。


「真治? ……無視しないでよ」


 こほんと電話の向こうで咳払いが聞こえる。


「あ、もしもし。ごめん、無視したわけじゃないんだ」


 真治からの返事が聞こえた瞬間、菜穂は笑みを浮かべた。が、すぐに表情を引き締める。真治には振り回されないつもりだ。


「なら、何で出ないのさ」

「まぁ、ちょっと、色々……。で、どうしたの?」

「やえっちが自転車を返せって」

「ああ、そうか。返さなきゃ。明日返すと伝えておいて」

「わかった。ってか、何で今日、来ないのさ」

「……人に会ってた」

「誰?」

「この間、菜穂と一緒に雑貨屋にいたときに出会ったお婆さん」

「どうして、お婆さんに会いに行ったの?」

「……菜穂のためかな」


 菜穂はきゅっと胸を絞めつけられる。やめてよ、そんな言い方。そんな風に言われたら、また、勘違いしちゃうよ。


「で、何かわかったの?」

「わかったとも言えるし、わからないとも言える。ただまぁ、俺にとっては、色々と実りのある話だったかな」

「色々って?」

「色々は色々さ」

「むぅ、いっつもそうやって、はぐらかすんだから」

「菜穂、そろそろ時間はいいのか?」

「あ、そうだね。私はどっかの誰かさんと違って、真面目に学校に来ているからね。……ねぇ真治、明日は来るんだよね?」

「ああ、行くよ」

「そっか。んじゃ、また明日」

「ああ」


 菜穂が電話を切ろうとしたとき、「菜穂、ちょっと待って」と真治が言った。


「何?」

「あのさ、ありがとう。電話してくれて。すげー嬉しかった。それだけ。んじゃ」


 真治は菜穂の言葉を待たずして、電話を切った。その態度に菜穂は憤る。ずるい、自分だけそんなこと言っちゃって。それに、そんなこと言われても嬉しくない、と。しかし、その顔はにやついていた。





 その日の夕方。菜穂は朝よりも穏やかな気持ちで玄関の扉を開けた。


「ただいま」


 反応はない。靴がないし、父親は買い物に出かけたらしい。


 菜穂は自分の部屋に移動し、パソコンを起動した。とくにやることもないし、動画投稿サイトのくだらない動画でも見て、だらだら過ごすことにした。


 異変に気付いたのは、それから一時間後のことだった。


 下が何やら騒がしい。どん、どんと重々しい音がする。


 父親が帰ってきたのだろうか。何をしているのだろう。菜穂は不思議に思って、部屋から出た。やはり下が騒がしい。しかも、何か言い争っているように聞こえる。


「パパー?」


 階下へ呼びかける。言い争いがピタッと止まった。と思ったら、「菜穂、逃げろ!」との父親の叫びが聞こえ、また、騒がしくなった。父親が何か叫んでいる。そしてよく聞くと、他にも人がいるようだ。


 逃げろ? 何で? 何をしているの、パパ?


 菜穂は不安に思いながらも、ゆっくりと階段を下りる。


「パパ、何かあった――」


 と言いかけ、菜穂は息を呑んだ。階下にひょこっと男が現れた。見知らぬ男だ。全身黒のファッションで、細身の体格に顔は丸い。男は満面の笑みを浮かべる。


「こんにちは、なほちゃん?」


 菜穂は一瞬で理解した。この男はヤバイということに。うまく説明できるわけではない。ただ、感覚でわかる。この男は『ヤバイ』。


「菜穂、逃げろ!」


 父親の声でハッとする。父親の姿は見えなかったが、菜穂は慌てて階段を駆け上り、自分の部屋に駆け込んだ。


 何? どうなってるの?


 頭の中はパニックだった。しかし自分に危機が迫っていることは理解できた。何とかしなければ。何を。そのとき、スマホを見つけた。電話だ。電話で助けを呼ぼう。


 菜穂はスマホを手にとり、認証番号を打ち込む。しかし焦りのためか、うまく打ち込めない。ああ、もう、早くしなければいけないのに。ようやく解除して、菜穂はすぐさま発信ボタンを押した。相手は真治だった。


 プルルルル、プルルルル、プルルルル……。


 早く、早く出て、真治!


 プルルルル、プルルルル、プルルルル……。


 早く、何やってんの! 早く!


 プルルルル、プルル、ガチャッ。


「もしもし」

「もしもし、真治! 助け、て……」


 菜穂は愕然とした。スマホが抜き取られる感覚があった。


 おそるおそる振り返ると、男が立っていた。加虐心に満ちた笑みを浮かべて。


「きゃー!」


 菜穂は悲鳴を上げ、男を突き飛ばそうとした。しかし男はビクともしない。菜穂はベッドの上に逃げた。そこしか逃げ場がなかったのである。


 男は菜穂に顔を向け、スマホを握りつぶした。菜穂は言葉を失い、呆然とする。そして、男の左手にある物を見て、顔が真っ青になる。人間の腕だった。今、切り離したばかりなのか、血が垂れている。


「ああ、これが気になるか?」男は優しい声音で言った。「俺はグルメな人間でね。全国を渡り歩いては、その土地の人間を食すことにしているんだ。んで、いつもはちゃんと調理するんだけど、これはつまみ食い。お前の父親があまりにもおいしそうだったから」


 そう言って男は、カニしゃぶでも楽しむかのように腕を頬張った。


 菜穂には目の前の光景が理解できなかった。人間が人間の腕を食べる? そんな馬鹿な。それに男は骨をバリバリ歯で砕きながら食べているのだ。そんなことができるのか。人間の骨を砕くなんて、そんなこと。


 男は残った中指を口に放り込むと、咀嚼しながら、満足そうに目を細める。


「やっぱり、おいしい。摂生に努める人間の肉はどうしてこんなにもおいしいのだろう。どうしてだと思う?」


 菜穂は声が震えて出せなかった。


「おっと、無視か。こいつはひでぇなぁ」


 菜穂は首を勢いよく振る。無視をしたいわけじゃない。ただ、声が出せないのだ。


「まぁ、いい。お前もすぐに食べてあげるから。見たところ、すげぇ、おいしそうだし」男は舌なめずりする。「都会に対する認識を改めなきゃいけねぇな。都会の人間はまずいと思っていたけど、そんなことはなさそうだ」

「菜穂!」


 父親が部屋に飛び込んできた。右腕が無かった。それでも男の腰に、左腕でしがみ付く。


「菜穂! 早く逃げろ!」

「でも、パパは!」

「俺はいいんだ! 俺は、これで! 罪を受けるべきは俺なんだ! お前は関係ない。だから、これで」

「いやっ! パパ!」

「素晴らしい親子愛だ」男は拍手する。父親の抵抗など、屁でもない様子だ。実際男は、いともたやすく、父親を振り払った。「ああ、本当に、素晴らしいよ。やはり、親子とはこうでなくちゃなぁ。こういった愛があるからこそ、人っておいしくなると思うんだ」


 父親は左手で男の足を掴もうとした。しかし男は父親を蹴り飛ばし、仰向けにさせると、腹に右足を乗せた。父親は呻く。


「なぁ、なほちゃん? 人間が最もおいしい瞬間っていつだと思う」

「な、何を言ってるの……?」

「俺はなぁ、思うんだ。恐怖を感じているときが一番おいしいんじゃないかって。だから俺はさぁ、最近、恐怖を与えたまま殺すことにはまってんだよねぇ」


 男は自分の手を、父親の胸に向かって下ろした。


「いや、止めて!」


 手が胸に触れ、沈み、突き刺さる。


「うっ、ぐぅうう」


 父親の胸から血が溢れ出した。男はその姿を愉快そうに眺め、手をさらに突っ込む。


「な、なほ」


 父親が手を伸ばす。


「パパ! いやぁ! やめて!」


 男は手をより深く突っ込む。そして――父親の心臓を掴み、引きぬいた。


「あ、ああ……」


 男の手にある心臓を見て、菜穂は絶句した。脈打っている。まだ、戻せば、父親は助かる。でも、男はそれを拒むように心臓を口もとに寄せ、舐めた。菜穂に見せつけるように。ねっとりと。

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