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第5試合 春休み

俺は退院する前に、聞いたことがあった。


医師の先生に、勇気を出して。

「先生、スポーツ、できますか」

「スポーツですか……体力が入院で弱ってますが若いですからねえ……ちなみに何を?」

「卓球です」

医師の先生は、ちょっと驚いたようにこちらを見た。

「わかりません。今まで見たことがないので。しかし、その腕の状態で卓球をやっている人は知っています。パラリンピックにも多く出ています。できない、と早急にいうことは、私はしたくないです」

ということは、出来る可能性も、あるのか。


母さんの車の中で、俺は自分の右肘を見た。

肘のくぼみがあり、その先はない。

幻肢も少しずつ、理解してきた。


俺はこの腕と、これから過ごすことができるのか。

この腕は、ナタリア・パルティカ選手のように、トスを上げてくれるのか。


母さんが横目で見ているのは知っていたが、あえて、何も考えないようにした。


退院一ヶ月目。


最初の一週間は、球を落とすことしかできなかった。

確かに、小田切先生が言ったとおり、俺に今あるのは「覚悟」だけだ。


家の裏庭、誰にも見られない場所を選んだ。

物置の陰になっていて、家族の窓からも見えない。

夜、父さんと母さんが寝静まってから、懐中電灯の明かりだけを頼りに、右肘の窪みに球を乗せる練習を繰り返した。


トスを上げる。落ちる。拾う。上げる。落ちる。拾う。


何百回繰り返しても、まともに上がる回数は片手で数えられるくらいだった。

指先に、なくなったはずの感覚が残っている。

動かそうとするたびに、その幻の感覚と、実際に動く肘の動きがずれて、余計に混乱した。


母には「素振りの練習」とだけ伝えていた。

噓ではなかったが、全部でもなかった。


二ヶ月目。


球が、まぐれではなく安定して上がるようになったのは、二ヶ月目の半ばあたりからだった。


高さ16センチ、というルールの数字を、最初は頭で数えていた。

今は、感覚で分かるようになっている。

この高さなら大丈夫、この高さでは足りない、という判断が、考えるより先に体に出てくる。


だが、トスができても、その先のラケットワークがまるで別問題だった。

振り抜く一瞬に、体のバランスが崩れる。

以前なら意識すらしなかった重心の移動が、右腕の重さが変わったことで、根本からずれていた。


何度も転びそうになった。

実際に何度か、庭の隅で膝をついた。


誰かに見せられる状態ではなかった。

それでも、やめる理由にはならなかった。


三ヶ月目。


三ヶ月目に入る頃には、サービスとしての体裁が、ようやく整ってきた。


まだ完璧じゃない。相手を崩すほどの多彩さはないし、コースの精度も甘い。

それでも、審判の前に出して恥ずかしくないレベルには、たどり着いた気がしていた。


この頃から、練習の場所を家の外に少しずつ広げるようになった。

人気のない早朝の公園、始発前の駅前の広場。

持ち運べる簡易ネットを使って、実際の台に近い距離感で打つ練習も始めた。


ある朝、公園で練習していたときに、通りがかった誰かに見られた気がして、慌てて荷物をまとめたことがあった。

振り返ると、誰もいなかった。

それでも、心臓はしばらく速いままだった。


誰にも知られずに続けてきたこの三ヶ月が、いつまで続けられるものなのかは分からなかった。

それでも、続けるしかなかった。


ノートには、日付とトスの成功率だけを、淡々と書き続けていた。


12%。18%。31%。47%。63%。


数字が積み上がっていくのを見るたびに、少しだけ、前に進んでいる実感があった。


この数字を、誰かに見せる日が来るとしたら――そう考えたとき、頭に浮かんだのは、両親の顔だった。


まだ、心の準備はできていなかった。

それでも、そう遠くない日に、話さなければならないことは分かっていた。

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