最終話 新しい朝
『――順調ですね』
電話先の声は、いつも通りだった。
『原稿、確認しました。問題ありません』
「ありがとうございます」
幸一は答える。
画面には、修正済みのデータ。
ソラの人工脳では理解できない、複雑な人間が考える部分。
そこを編集は指摘してくれる。
マンガ家だけが特別なわけではない。
自分一人の力ではなく、他人の力が働いている。
特にソラの存在は大きかった。
芸術においては、ミューズと呼ばれる存在がある。
あの人間性の希薄な存在が、むしろ創作意欲を掻き立てる。
そして既に次の話の話題に入る。
『一点、確認ですが』
「はい」
『アシスタントの件です。今後は募集されますか?』
「そうですね……」
一瞬だけ、視線が横に流れる。
ソラは、午後の休みに茶を飲んでいた。
馴染んだものだ。
『今までは、いなくても回ってましたけど、連載となると……』
「……この先は、必要になるかもしれません」
今はアシスタントは、どこでも必要とされる。
リモートが出来る時代なので、幸一も多くはリモートで受けていた。
今は必要ない。
ソラの能力は、アシスタントに特化することが出来た。
わざと少し下手にするぐらいまで、ソラは可能なのだ。
『分かりました。受けてくれそうな人を探しておきます』
「お願いします」
通話が終わる。
「再開しますか?」
「そうだな。……ソラ、やっぱり作業用の机、もう一つ買おうか」
「面積が足りません。ちゃぶ台で結構です」
「でも、足痺れないか?」
「大丈夫です。頑丈に作成されています」
「そうか……」
もう一台ぐらいなら、置けなくもない。
だが必要ではなくなるかもしれない。
そしてまた作業が再開される。
それは作業でありながら、創造であった。
幸一が望み、ソラが望んでいたもの。
「ソラ」
「はい」
「アシスタントって、どう思う」
「合理的です」
即答だった。
「現在の生産性を維持、または向上させるためには、補助は有効です」
「……だよな」
キーボードを叩く。
線が引かれる。
コマが組まれる。
物語は、もう止まらない。
数日後、インターホンが鳴る。
「届きました」
ソラが分厚い袋を持ってくる。
見覚えのある出版社のロゴ。
「……早いな」
分かっていたはずだが、本当に先に来るのか。
「印刷の段階から算定して妥当です」
受け取った袋を、丁寧に開ける。
中には、雑誌が一冊。
表紙には自分のPNが載っている。
当たり前のようで、当たり前ではない。
ページをめくる。
普段であれば、頭から読んでいく。
だが今日は違う。
目当ての位置に、それはある。
第一話。
読み始める。
誰よりも知っているはずの内容。
だが、違う。
紙に印刷されたそれは、もう「作業」ではなかった。
最後まで読む。
ゆっくりと閉じる。
「……」
言葉は出ない。
「どう感じますか」
ソラの声。
「……分からん」
正直に答える。
「でも」
少しだけ考える。
「満足ではある」
「はい」
ソラは頷く。
「エントロピーの増大を計測しました」
「え? これだけで?」
「個体の反応から算定しています」
そして、静かに告げた。
「これで私の観測任務は終了しました」
「……そうか」
否定はしない。
否定できるようなことでもない。
する理由は……ないのだろうか?
「じゃあ、とりあえず、仕上げるか」
「食事の準備をします」
「頼む」
想像力が一般的なエントロピーの増大を凌駕した。
人間の産む創作の力とは、そういうものであるらしい。
雑誌の発売と共に、ソラは明確にそう言った。
そして今日も作業が終わり、一話分の原稿が完成した。
「幸一さん、散歩をしませんか」
ソラがそう言ってきたのは、とても珍しいことである。
「……そうだな。行くか」
「はい」
深夜近く、外に出る。
人はいない。
間隔のある街灯だけが、ぼんやりと照らしている。
歩く。
目的地は、決めていない。
だが自然と、一定のルートをたどる。
あのコンビニ。
それから公園。
当たり前だが誰もいない。
風もなく、何も揺れない。
「夏も終わったな」
「暦の上では既に秋です」
あの時そうしたように、二人はベンチに座った。
「幸一さん」
「ん?」
「任務は完了しました。ありがとうございました」
「ああ」
短く答える。
それで十分だった。
「これからもよろしくお願いします」
「ああ……え?」
え?
「……帰らなくていいのか?」
ソラは、わずかに首を傾げた。
「本個体は地球人の肉体を基盤としています」
淡々とした説明。
「つまり地球環境でしか生活できません。観測データは既に送信済みです」
「え? 他のところに行ったりとかは……」
「幸一さん」
ソラはいつも通り、つまり普通ではないのにまともであった。
「私は幸一さんとの生活に、最適化しすぎました」
「じゃあ……」
「お邪魔にならない限りは、現在の生活を続けたいという判断です」
そうなのか。
幸一は尋ねる。
「他の仕事はしなくていいのか?」
「幸一さんの継続観測に移行します」
迷いがない。
「……そうか」
それ以上は、何も言わない。
夜風が吹く。
少しだけ涼しい。
とてもすがすがしかった。
「幸一さん」
「ん?」
「私が残ると、嬉しいですか?」
少しだけ、考える。
「どうだろうな。まあ」
顔をそむけて答える。
「新しいアシスタントを雇わなくていいのは助かる」
「……そうですか」
その声は、変わらない。
だが、ソラは笑っていた。
その笑顔がどんなものであったのか。
顔を背けていた幸一が、それを見ることはない。
夜は、まだ続いている。
そしてまた、朝が来る。
希望でも絶望でもない、普通の朝。
非日常な日常が続いていく。




