無防備
あの後、久世は、意識を失った。
抱きかかえて、この通路を出ようとはしたんだ。
ここがいつまで安全かは分からないし、「東京に行く」と言っていたのだから、少しでも進んだほうがいいと思って。
けど、バックパックのショルダーハーネスは肩に食い込むし、180cmの僕より背が高くて、細身だけど筋肉質な久世の体は、とにかく重かった。
僕だって、子供の頃から水泳や乗馬で鍛えている。
だから、力がないわけではない。なんとか床の上を引きずろうとしたんだ。けど、一ミリも動かすことができなかった。
僕を軽々と抱き上げたその腕は、今はただの重たい石だ。
結局、管理通路の冷たいコンクリートの上に、僕と、意識を失って荷物に変わっただけの、使えない執事だけが残された。――執事の方は、もう人なのかも分からないけれど。
背中を壁に預け座った僕は、久世を抱き寄せた。のっしりとした、その重みを肩に感じる。
久世の髪からは、あの金属質の香りがする。
一向に起きる気配のない久世に、どうしていいか分からず、僕はその顔を眺めていた。
無防備な、久世の顔。
いつも背筋を伸ばし、僕のすべてを先回りして、完璧で、揺るがなくて……。
正面から、見詰めたことはない。横顔は、たまにじっと見てしまったことはあるけど。でも大概は、目が合って、すぐに視線を逸らした。
主である僕が、執事である久世を、じっと見詰めるなんて、おかしなことだ。
だから、こんなにまじまじと、久世を見たのは初めてだ。
長くて黒い睫毛が、微かに震えている。
その奥にあるはずの瞳孔は、縦に裂けていた。
……さっき見た感染者の目とは、違っていたはずだ。
では、庭師――それも違う。アレは、人の形をした別のものだった。
でも。久世は、呼吸をしている。僕の肩を圧迫する額からは、確かな体温が伝わってくる。
アレとは違う。
あんな醜いものと、この男は同じじゃない。
そう思った瞬間、胸の奥に、嫌な感覚が湧いてくる。
それは、「……違う」と言い聞かせている自分への、浅ましいまでの不信感だ。
もし、同じだったら?
もし、これもアレの途中だったら?
もし、この整った鼻筋や唇が、発症前の存在だったら?
――違う。
そんなことはない。
きっとあの瞳孔は、パニックを起こした僕が見た、幻だ。
あんなに美しいものが、現実なはずがない。
規則正しい呼吸音に、僕は耳を澄ませた。
もし、今この扉を誰かが破ってきたら、僕は久世を守れるのだろうか。
僕は、久世の頬にそっと手を伸ばした。
その指先は、なぜだか少し、震えている。
肌に触る。熱い。
――起きろよ。久世。
心の中で言ってみた。
今度は、僕の膝の上に置かれた久世の手に、自分の手を重ねた。
指の輪郭を、人差し指でそっとなぞる。
この手に宿る熱が、いつか冷たい結晶に変わってしまうのではないかと、そんな得体の知れない恐怖を、打ち消すように。
非常灯の、不気味な赤い光の中。
それは、久世の意識が回復するのを待つだけの、ひどく長くて、ひどく静かな時間だった。




