群衆
僕たちは、囲まれていた。
人に。
◇
そこは、僕もよく知っている場所だった。
札幌駅から大通公園までを繋ぐ、広大で近代的な地下歩行空間。
通称――チ・カ・ホだ。
高校生の頃。
冬の刺すような空気を避けて、コートの襟を立てた制服の群れの中心で、何度も歩いた場所だ。
ガラス張りの店、白い床、天井から降り注ぐ均一な光。
だが。
一歩、足を踏み入れた瞬間、空気が違った。
息を吸う。
肺の奥に、ざらついた何かが貼りつく。
湿っていて、澱んでいる。
僕は、羽織っていた薄手のパーカーのファスナーを上げた。
天井の照明は半分が消え、残りは壊れた心臓のように明滅している。
壁一面には、青く脈打つ菌糸。
柱には、内部から膨張したような結晶体が食い込み、空間そのものを歪めていた。
「ここを、行くのか?」
僕は、前を歩く久世に訊いた。
「はい」
「外の方が、安全なんじゃないのか?」
「いいえ」
短く答えて、進む久世。
僕は、立ち止まった。
その気配に気づいたのか、久世も足を止め、僕を振り返った。
久世はにっこり笑って、僕に手を差し伸べた。
「怖いのでしたら、手を繋ぎましょうか。坊ちゃま」
苛立たしい。
ずっと僕を子ども扱いだ。
久世を叱ってやろうか、とも思ったが。
――まあ、いい。こんなことで、声を荒げる僕ではない。
僕は、久世の横を通り過ぎ、前を歩いた。
暫くして、コンビニの前に、スチール製の台車がいくつも並べられているのが、目に入った。商品運搬用のものだろう。それが今は、即席のバリケードのように積み上げられている。
檻だ、と僕は思った。
格子の向こうに、人がいる。数人。
床に座り込み、壁に背を預け、互いの体温を確かめるように身を寄せ合っている。
その中の一人と、目が合った。
「おい、あんた!!」
僕の肩が跳ねた。
そんな呼ばれ方をされた記憶が、ない。僕の22年の人生で、一度たりともだ。
いったいあの男は、誰に向かって口を利いているのだ。
「僕は――!!」
言いかけた言葉は、形になる前に止まった。
久世が、静かに一歩前に出たからだ。
「坊ちゃま。今は――」
久世の声は低く、短い――制止だった。
バリケードの向こうからは、声が重なった。
「なんだよ救助じゃないのかよ」
「外って今どうなっているの?」
「スマホ、全然繋がらない!」
視線が、こちらを刺す。
不安、苛立、縋るような目。
久世は、それらを見なかった。
迷いのない足取りで、台車の隙間を抜け、コンビニの中へ踏み込む。
「おい! 勝手に入るな!」
誰かが声を荒らげたが、それだけだった。
理由は分からない。
ただ、その男の声に続く者はいなかった。
久世は、電源の落ちた冷蔵庫の扉を開けた。
中に残っていたミネラルウォーター。
ゼリー飲料。
クッキー。チョコレート。米。
無造作に、ここに来る途中で拾った誰かのバックパックへと、放り込んでいく。
「久世……」
小さく呼んでみた。
「みんな、見てる」
「坊ちゃま……」
手を止めず、久世は静かに言った。
「坊ちゃまは数時間前、食事もまともに用意できない者は、無能だ――と仰いました」
胸の奥が、ひくりと痛んだ。
確かに、似たようなことは言ったかもしれない。
けれど、そんな言い方をした覚えは、ない。
は!? ――まさか、僕のせいにする気か!?
その時。
誰かが、久世の肩を掴んだ。
「おいお前! 全部持っていく気か!? それは俺たちの食料だぞ!!」
一斉に向けられる視線。
「こいつら、二人だけで独占する気だぞ!」
「ふざけるな!!」
「助けはいつ来るの!?」
怒鳴り声、泣き声、罵声。
意味を持たない音の塊と人の輪が、じりじりと僕たちを囲む。
久世が、僕の前に出た。
――その時。
群衆の向こうで、甲高い悲鳴が上がった。
青い光が、薄闇の中で脈打つ。
「感染者だ!」
叫び声と同時に、恐怖の矛先が変わる。
さっきまで僕たちを罵っていた人々の顔が、一瞬で絶望に塗り潰された。
逃げ場のない地下通路に、生身の人間が押し寄せる足音が、地鳴りのように轟く。
久世が、僕の手首を掴んだ。
人を押しのけ、隙間を縫い、僕の腕を引き寄せながら、強引に進んで行く。
僕たちは、群衆を抜けた。
背後で、何かが倒れる音。
誰かの悲鳴が、別の誰かの怒号に潰される。
僕は、振り返らなかった。
聞こえてくる声は、言葉のはずなのに、僕の中では意味を結ばない。
その音は、助けを求めているのか、罵っているのかさえも、もう分からなくなっていた。
ただ、掴まれた手首の熱だけが、背後の地獄を曖昧に変えていた。




