街
僕はひたすら歩かされた。
今履いているのは、途中で拾った誰かのトレッキングシューズだ。
泥に汚れ、サイズも微妙に合っていない。
エドワードグリーンで特注した僕の靴は、きっともう、異界と化したあの邸の中だろうし、最初は、寝室のスリッパだったんだ。
東京に向かう――と、久世は言っていた。
正気じゃない。ここは北海道だ。札幌だ。
「抱っこして差し上げましょうか?」
にっこりと久世に言われたが、断った。
僕にだってプライドがある。
誰が見ているか分からない街中で、不名誉な姿を晒すわけにいくものか。
道中、人とコンクリートが混ざったみたいな青いのに、何度か襲われた。
久世が、それらを当然のように排除した。
変わり果てた終末世界でも、久世がいれば無敵なのは確かだ。
「お腹が空いた」
瓦礫の山を越え、青い六角柱がアスファルトを食い破る大通りに出たところで、僕はついに足を止めた。
昨日、あのシャンパンとクッキーを口にして以来、何も食べていない。胃の辺りが気持ち悪いし、足は鉛みたいに重かった。
周囲には高級ホテルが立ち並んでいるが、どの窓も青い蔦に覆われ、巨大な蜂の巣のように変貌している。
久世が足を止め、僕を振り返る。
その顔には、いつもの無機質な執事の微笑が張り付いていた。
「坊ちゃま――」
「なんだよ」
僕は鼻をふんっと鳴らしてやった。
どっちが主か、思い出すがいい。
「そもそも、この状況がわかっていたなら、ナイフと一緒にパンとかケーキとか……食べ物も持ってくればよかったのに。――使えない」
ふふん。
さすがに久世も、この完璧な論理には言い返せまい。
「あっ。――ほら、あそこのホテルのロビー、中に入れそうじゃないか」
僕は、入り口のガラスが粉々に砕け散った、五つ星ホテルを指差した。
ロビーの奥には、豪華なラウンジが見える。運が良ければ、手付かずの備蓄があるかもしれない。
「……あの中には、アレが『詰まって』いる可能性があります」
「いいから行けよ。僕はもう一歩も動かない」
僕は道端の、青く透き通った六角柱の上にどっかりと座り込んだ。久世は深く、深く、大きなため息を吐いた。わざとらしい。
「……致し方ありませんね。……『掃除』をして参ります。坊ちゃまは、そこから一歩も動かぬように」
久世が砕けたガラスの破片を踏み鳴らし、ホテルの奥へと消えていく。僕は一人、座って待つことにした。
――怖くなんかない。
だから僕は、久世の裾なんか掴まない。
『ガシャーーーン!!』
「――っ!!?」
びっくりした。
店内で、ガラスが砕ける音と、人間のものではない絶叫が響いた。
なにが起こっているかなんて、想像したくもない。
数分後。
久世が戻ってきた。肩についた返り血ではない何かを、何でもないように払った。
「……あいにく、坊ちゃまの口に合うようなものはございませんでした。……これで我慢してください」
久世が差し出したのは「プチパン」と、「生ぬるい水」だった。
「……なんだよこれ」
文句の一つも言いたくなる。
けれどそれを受け取るとき、僕は気づいた。
久世の手首。白いカフスの隙間から見える肌が、一瞬、青黒く見えた。
「……久世。お前、その腕……」
「……おや」
久世は、僕の視線に気づき、慌てる風もなく袖口を整えた。
カフスボタンが、パチン、と冷たい音を立てて嵌め直される。
「……少々、身だしなみが乱れておりましたね。失礼いたしました、坊ちゃま」
いつも通りだ。
僕は差し出されたプチパンを一口、齧った。
パサついて、砂みたいな味がした。
「……久世」
「はい」
「美味しくない。……半分食べろ」
プチパンを差し出した僕に、久世は一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
「……左様でございますか」
久世は優雅に、けれどどこか飢えた仕草で、僕の指を巻き込むようにしてパンを頬張った。
「――!?」
指先にまとわりつく、熱を帯びた異質な柔らかさに、僕の心臓が跳ねた。
そうじゃない。違う。そうやって食べろとは言っていない。
けれど、僕を凝視する久世の瞳が、あまりに深く、暗い悦びを湛えて見えたから。
僕は驚いて、息が詰まって、なにも言えなかった。




