違和感
その日の前日、僕はほぼ丸一日を、飛行機の中で過ごしていた。
留学先のイギリスから、夏休みの一時帰国。
パパ……父のプライベートジェット。
高度一万メートルの静寂の中で、僕は淡い金色のシャンパンを喉に流し込んだ。クリスタルの泡が、今日は妙に騒がしく弾ける。
フィンガーフードの、クリームチーズとレーズンを挟んだクッキーを摘まむ。
窓の外は暗い。
僕は酒に強い方ではない。シャンパングラスのたった一杯で、既に視界は揺れ、Tシャツから見える腕は、真っ赤になっていた。
顔もたぶん赤いのだろう。
火照っているのが自分でも分かる。
「坊ちゃま。二杯目はやめておきましょう」
執事の、久世奏多だ。父が、ある日連れてきた使用人で、僕より六歳上。
留学先でも僕の影のように貼り付き、身の回りの世話をしている。
有能なのは認めるが、とにかく――いちいちうるさい。
「いいから注げ」
僕は、空のグラスを突き出した。
久世は表情を一つも変えず、僕の真っ赤になった腕をじっと見つめている。その瞳が、機内の照明の加減か、一瞬だけ、異様に冷たく、淡い色に見えた。
「……本日の坊ちゃまは、少々血の巡りが良すぎるようです。これ以上は、『毒』になりかねません」
執事とはいえ、たかが使用人のくせに、何様だろう。
僕に指図するのが、許せない。
「お前が僕の体調を決めるな。早く――」
言いかけた言葉は、機体が大きく揺れたことで遮られた。 乱気流か。それは直ぐに収まった。
「……お怪我はございませんか、怜央様」
久世の腕が、いつの間にか、逃げ場を塞ぐように、僕の体をシートに留めていた。端正なその顔が近すぎて、アルコールで火照りきった僕の肌さえも、その体温に灼かれるのだと思った。
久世が纏う香水――わずかに混じる、鋭利な金属を思わせる品のいい香りが、僕の鼻腔を満たした。
御子柴怜央――それが僕の名前だ。
久世は、たまに僕を「坊ちゃま」ではなく、「怜央様」と呼ぶ。
坊ちゃまと呼ばれる時、僕はいつも、「大人しくしていろ」と、言われている気がした。
「離せ。……ベルトはしている」
僕が身を捩ると、久世は素直に腕を引いた。
その視線は窓の外、乱気流の去った後の暗闇に固定されている。
「驚きましたね。今の揺れで、機内の時計がすべて止まってしまったようです」
久世が、左手の腕時計を見せる。高級な機械式時計の針が、狂ったように高速で逆回転していた。
「――壊れたのか?」
眉を顰めて訊いた僕に、久世はにっこりと微笑んだ。
「いいえ坊ちゃま。世界の方が、少し急ぎ始めただけですよ」
なにを言っているのか分からない。けど、久世はまた、僕を子供扱いする呼び方に戻った。
「ふぅ~ん」
僕はそれ以上、もう久世を見たくなくて、窓に目をやった。
肘掛けに腕を置いて、頬杖をついて。
けど、逆回転する針の音――ありもしないその音が、僕の鼓膜を内側から叩いている。そんな気がして、酔いが加速したのか、ひどく気分が悪くなった。
「……もう寝る。日本に着いたら起こせ」
「承知いたしました」
久世が差し出した温かい毛布に、僕は包まった。
「……良い夢を」
久世が囁く。
毛布に顔を埋めた瞬間、僕の意識は急速に……遠退いていった。
次に目覚めた時、僕は、自分の部屋のベッドで、横になっていた。
飛行機が着陸したとき、久世は僕を起こさなかったのだろうか。
僕は、みっともなく酔い潰れて、意識のないまま車に乗せられ、ここまで運ばれたのか。
寝返りを打つと、どこからか微かに、あの男の香水の匂いがした。
……あいつ、僕をここに寝かせた後、しばらく僕を眺めていたんじゃないか?
無防備に眠る僕を、どこまで――。
そう思ったら、恥ずかしさと怒りが込み上げてきた。
「久世! 久世――!!」
僕の声は、広すぎる寝室に虚しく響いた。いつもなら、僕がベルを鳴らす前に「お呼びですか」と、現れるはずの久世が――来ない。




