夜
前を行く久世が立ち止まったのは、大通公園を一望できる、全面ガラス張りのオフィスビルの入り口だった。
中に、人影はない。
床も壁も、ひび割れていない。
青い蔦も絡まっていないし、結晶もない。
「……今夜は、ここにしましょう」
久世が、当然のように言う。
だからって、寝るのに落ち着かないだろう。
こんな場所。
だが久世は、お構いなしに中に入っていった。
僕が「嫌だ」と言っても、聞かないのはもう分かっている。
スイートルームを用意しろとは言わないが、せめて、壁には囲まれたい。
そう思っていると、久世は、一階の床の上で、バックパックから簡易テントを取り出し、手際よく組み立て始めた。
そして、一つしかない寝袋をテントの中に置いた。
キャンプだ。
これなら許そう。
僕は、コンビニのサンドイッチを食べながら、ガラス越しに公園を見ていた。
夕闇が、ゆっくりと人々を包み込んでいく。
自衛隊が設置した照明の光が、日が落ちた公園を浮かび上がらせていた。
その時。
風に乗って、かすかに音が聞こえた。
――歌?
誰かが、鼻歌を歌っているみたいな。
けれど、旋律はなく、言葉もない。
ただ、揺れるような、擦れるような音。
「……なあ、久世」
「はい」
「さっき言ってた『歌』って……」
久世は答えず、僕の隣に立った。
たぶん、同じ場所を見ている。
ガラスの向こうで、灯りが一つ、また一つと増えていく。
その下で、人影が、同じ方向に揺れ始めているのが見えた。
「夜は――見るものではありません」
その声は、僕にはひどく冷たく聞こえた。
「さあ、今日はもう休みましょう」
久世が首を傾げ、僕を見る。
僕はちらっと久世を見た。
「坊ちゃま」
僕は、それを無視して、微かに聞こえてくる「歌」に、耳を澄ませた。
「坊ちゃま」
久世がもう一度、僕を呼ぶ。
「早く寝袋に入ってください。でないと、私が占領して差し上げますよ」
僕は目をパチクリさせた。
冗談じゃない。
そこは僕が寝る場所だろう。
お前はバックパックを枕に、その隣で寝ると言ったはずだ。
だが、こいつは本当にやりかねない。
僕は急いで横になった。
すると、さっき立ち寄ったコンビニで手に入れたアイマスクを、有無を言わさぬ手つきでつけられた。
耳栓も。
視界と音。
僕を外の世界と繋ぐ糸が、久世の手によって断ち切られていく。
――勝手に……と、思ったが。
こんなになってしまった世界で感覚を奪われ、闇の中に放り出されても――すぐ隣には久世という熱がいるのだと思うと、心の底から安堵した。
けれど、今日の出来事を思い出して、僕は身を縮める。
その頭を、久世が撫でた。
金属の香りが、僕の鼻腔を満たして……僕は密かに、夢の狭間へと堕ちていく。




