境界の青
「……坊ちゃま。少し、行儀が悪うございます」
その声で、僕は深い水底から無理やり引き上げられるように、意識を取り戻した。
最初に飛び込んできたのは、鮮やかな青だった。
砕けたアスファルトの裂け目から噴き上がり、絡み合い、脈打つように発光する植物――なのだろうか。
かつて栄えていた通りは、今や青い蔦と菌糸に覆われ、ビルの骨組みを内側から抱き潰す、異様に静かな森になっている。
僕は、リムジンのボンネットに腰掛けていた。
周囲には、先ほどまでこちらに向かって駆けてきた存在の残骸が、転がっている。
人だったはずのそれらは、肉とコンクリートと、何か別の物質が混ざり合い、幾何学的な結晶として固まっていた。
「……終わったの、か?」
自分の声が、思ったより掠れていた。
「はい」
彼は、いつもの燕尾服姿のまま、返り血一つ浴びていない。
袖口を整えながら、何でもないことのように言う。
「坊ちゃまのティータイムを邪魔する不衛生な異物の排除は、終わりました」
彼は、布のナフキンを使い、自分の指紋がつかないよう配慮しながら、ボンネットの上に白磁製のティーカップを置いた。
立ち上る湯気とともに、アールグレイの茶葉の香りが、死臭を強引に塗り替えていく。
僕は手を伸ばそうとして――動かないことに気づいた。
右手の指先から肘にかけて、皮膚の下を、青い光の筋が走っている。
血管のようで、違う。
この星の周波数が跳ね上がるたびに、それは強く脈打ち、僕の体を内側から凍らせる。
「……っ、はっ……」
呻きが漏れる。
痛みと区別がつかない。
これを、僕は勝手に「侵食」と呼んでいる。
彼の視線が、僕の腕に落ちた。
その瞳の奥で、縦に細い影が、一瞬だけ揺れた気がした。
「失礼」
彼はそう言って、僕の膝の間に割り込むように身を入れた。
素手で直接、僕に触れる。
その指は、僕の体温よりずっと熱い。
「……少々、周波が乱れておられますね」
淡々とした声。
なにかを評するというより、音程を確かめるような調子だった。
僕の肌を割り裂こうとする青いひび割れに、彼の薄い唇が、重なる。
「……っ」
熱が、弾けた。
息が、喉の奥で止まる。
次の呼吸の仕方が、わからなくなる。
浅く、早く、空気だけを吸い込む。
焼かれるような熱が、僕の体内に深く沈み込んでくる。
その熱は、僕の中で暴れていた違和感を、別の形へと整えていく。
苦しい。
それなのに、離されたくないと思ってしまう。
――これは、治療なのか。
――それとも、別の何か。
わからないまま、体の奥が、拒む間もなく包み込まれていく。
やがて彼は顔を上げた。
彼の唇に、僕の体から飛び散った青い光が残っている。
「……落ち着かれましたか、坊ちゃま」
完璧な、執事の微笑。
「坊ちゃまのお体は、随分と《《馴染んで》》こられました。……もうすぐです。耐えてくださいませ。この先にある『原初同調点』に辿り着けば、すべてが――」
彼が、僕をじっと見上げた。
「すべて、楽になります」
原初同調点。
そこに行けば、助かるのだと彼は言う。
けれど同時に、何かが終わる気がしてならない。
それがなんなのか。
まだ、うまく言葉にできない。
――どうして、こうなった。
あの日。
彼が僕の寝室に、洗面用の水差しではなく、「ナイフ」を持って現れた、あの日から。
そう、思っている。
たぶんそれも、もしかすると、正確ではないのか。
そういえば、この男は――いつから僕の、執事だった?




