後編
それからエルディスとの約束がある休みまで、時間はあっという間に過ぎた。
「……これで、大丈夫かな?」
何度も試行錯誤を重ね、選んだ服に身を包んでいるユリエラは不安げに鏡を覗き込む。
「……う~ん」
変、ではないと思う。一応この日のために服を新調したので、みすぼらしくもみっともなくもない。
ただ、これまでおしゃれなんてしたことがないので、いまいち自信が持てなかった。
「でも、あんまりいじくり回さないほうがいいよね」
とりあえず、今日はこれでいこうと決め、時計を見ればまだ約束の時間まで少しある。
はやる気持ちを抑えるように、ユリエラは今日の予定を確認した。
(えっと……まずは本屋に行って本を買って、そのあと観劇に行って、お茶をするのよね)
当初は本を買いに行くだけだったのだが、ユリエラが以前読んでいた本が原作の劇がやっているようなので一緒に行かないかと誘われたのだ。
演目は「イグルナクの聖女」
エルディスと出会ったあの日、ユリエラが読んだ本だ。
(そういえば、あの時にあった頭痛は一体何だったんだろう?)
立つことすらままならなくなった激しい痛みは、あれ以来ユリエラを襲っていない。
それ以外に不調もないので、病気ではないとは思う。
また聖女といえば、例の夢も未だ続いている。
今朝も見たばかりだ。
『聖女よ、目覚めなさい』
『さあ、早く早く』
『今度こそ、あの男を』
例の美しくも厳かな声は同じだが、かつては導くように言っていたのに、最近は急き立ててくるように言ってくるようになった。
とはいえ、所詮は夢である。
ユリエラ自身は特に気にする必要もないだろう。
時間を見ればそろそろ時間なので、ユリエラは待ち合わせ場所に向かった。
「エルディス君、お待たせ」
待ち合わせ場所には、すでに待ち合わせ相手の姿があったのでユリエラは駆け足になる。
「あっ、ユリエラ」
彼もユリエラの存在に気づいて、手を振った。
「ごめんね、待たせちゃったかしら?」
「いや、僕も今来たところだから……それにしても」
エルディスの視線が自分の服に向けられていることに気づき、ユリエラは息を呑んで彼の反応を待つ。
「素敵な服だね。良く似合っているよ」
「あ、ありがとう」
エルディスのことだから、ひどいことは言わないだろうとは思っていたが、こうして面と向かって褒められると照れてしまう。
「それじゃ、行こうか」
「ええ」
二人は連れ立って歩いていく。
向かうは、町で一番大きな書店。
大の読書好きで本マニアの店主があちこちからかき集めたと言われるその蔵書の数は、近隣の町と比べても随一であり、店内にはいつも多くの読書家が品定めを行っているのだ。
棚の隅から隅どころか、棚と天井の隙間や通路の片隅にまで本が積まれていて、広いはずなのに狭苦しい印象を与える店内をユリエラが先導する形で進み、お目当ての本を探す。
「えっと……確か、ここらへんのはず」
「……随分と本が多いねえ」
呆れたようにも感心したようにも聞こえる声色で、エルディスは周囲を見渡した。
「こんなにたくさんの本に囲まれていたら、何がどこにあるのかさっぱりだ」
「そうだね、ちょっと見つけにくいよね。でも、なんだかワクワクしない?」
「ああ、それはあるね。少しだけだけど、宝探しをしている気分だ」
エルディスが楽しそうに笑うのを見て、ユリエラはほっとする。
この店は彼女のお気に入りなので、エルディスが気に入ってくれたのなら嬉しい。
「あ、あった」
所狭しと並べられた本の中からお目当ての作品を見つけ出し、引き抜く。
「エルディス君、一冊だけ買う? それとも、続きもここで買っておく?」
「うーん、今はそんなに手持ちがないから一冊だけでいいかな」
「そう、わかった」
「うん。それでよかったらなんだけど、ここってちょっと入り組んでてわかりにくいから、また買いに行く時付き合ってくれない?」
「え?」
「だめかな?」
一瞬何を言われたのかわからず、エルディスの顔を見つめると彼は残念そうな表情を浮かべたので慌てて首を横に振る。
「だ、だめじゃないよ」
「本当に? よかった」
なんだかよくわからない間に次に会う約束を取り付けられてしまった。
(またこうして出かけられる? エルディス君と?)
信じられない。こうして一緒に出かけられるのも一生に一度のことだと思っていたのに。
(でも、嬉しい……!)
これはその時も、ちゃんとおしゃれしなければと内心気合を入れながら、エルディスを会計に案内する。
書店から出た二人は、劇場に向かう。
劇場には彼女たちの他にもぽつぽつと観客が席についていた。
「あんまり人がいないのね」
「まあ、ここの劇団はまだ小さいからね。でも、みんな実力派だからそのうち有名になると思うよ」
「そうなんだ」
小声で話しているうちに時間になって、劇が始まった。
劇場の中心で光を浴びるのは一人の少女。
白い服に身を包み、手を組んで神に祈りを捧げる姿は清廉で、神聖さすら感じる。
彼女こそが聖女。後に魔王に恋をして騙され利用され、祖国を裏切り多くの人を死に至らしめる悪女だ。
劇中での彼女も、当初は聖女という役割を果たすべく懸命に日々を過ごしていたが、それも一人の男の登場で変わってしまう。
彼は聖女に優しく微笑みながら甘い言葉をかけ、彼女を誘惑する。
当初はそれをはね避けようとした彼女だったが、結局は彼に心を許してしまう。
彼の正体は聖女と敵対関係にある魔王であり、聖女を利用するために現れたとも知らずに。
魔王はやがて彼女にこう言った。
『夜、兵士たちの目を盗んで門を開けて欲しい』
『まあ、どうして?』
『私の友人たちを君に紹介したいんだ。頼まれてくれるかい?』
『けれども、あの門は国民を守るためのものだから……』
『ああお願いだ、愛しい人。私の頼みを聞いておくれ』
聖女は迷ったが、結局は魔王の言うことに従ってしまった。
これにより魔王の軍勢は国に流れ込み、国民は殺されていく。
それが聖女のせいだと知った人々は、彼女を恨み、呪いの言葉を残して死んでいった。
そこでようやく自分のしでかしてしまったことに気づいた聖女は、罪を償う為に炎に飛び込んだ。
炎に身を焼かれながら、聖女は懺悔する。
『私はなんて愚かなことをしてしまったのかしら。魔王の甘言に惑わされ、利用されていたなんて。ああ、もしもう一度やり直せるのなら、決して騙されることなく使命を全うしたい』
その言葉を最後に聖女は死んでしまう。
最後に残ったのは魔王一人。
魔王は笑う。自分に騙された聖女を。死んでいった民を。
『ああ、なんて愚かなことだろう! 愛などというものを信じて、利用され、なんて惨めなのだ!』
その言葉を最後に魔王は姿を消す。
あとに残ったのは生きとし生けるものがいない不毛の大地のみ。
語り部がその後、勇者によって魔王が討たれたことを告げ、幕が下りた。
劇が終わり、二人は劇場近くの喫茶店に入った。
飲み物を注文して、話すのはもちろん劇のことだ。
「やっぱり、悲しい終わりだったね」
ユリエラはポツリと呟く。
物語の内容はすでに知っていたが、演者たちの素晴らしい演技力もあって心揺さぶられるものがあった。
「そうだね。明るい話ではなかったな」
エルディスもそう頷きながら、紅茶を口に入れる。
「次はもっと明るい話を観に行こうか」
「えっ……ええ! た、楽しみにしてるっ」
また一緒に観劇に行けるのかと、ユリエラの気持ちは一気に上向きになった。
そんな彼女の表情を、エルディスが目を細めながら見つめる。
まるで懐かしいものを見つめるようなその眼差しに、ユリエラは残念ながら気づくことはなかった。
赤くなる顔を隠すようにうつむき、紅茶にミルクと砂糖を入れていたからだ。
「ところでさ、あの話なんだけど……元の話がどんな話か知っている?」
エルディスの言葉にユリエラが顔を上げると、彼は普段どおりの笑みを浮かべていた。
「元の話?」
「そう。あれはもともと、魔王と聖女の恋物語だったんだよ」
「そうなの? 知らなかった」
ユリエラは彼の話を特に疑うこと無く、すんなりと受け入れる。
物語が年月を経て形を変えることは、よくあることだと知っていたからだ。
しかし、それだけではない。
なんとなく、ユリエラにはあの物語が『間違っている』ように感じていた。
どうしてそう感じたのかは、本人にもわからないけれど。
「魔王と聖女が出会ったのは、偶然だった。魔王も相手が聖女とは知らずに彼女と交流を深めていき、そして恋に落ちた」
二人が普通の男女であれば、結ばれてハッピーエンドになれただろう。
しかし、二人の立場がそれを許さなかった。
「魔王は聖女に言った。『どうか私の国に来て欲しい。そこで一緒に暮らそう』と。しかし、聖女は『ごめんなさい。私はこの国の人たちと共にいたい。それに、こんな私を選んでくれた神に報いたいの』と言って断った」
「それは……仕方がないわね」
きっと聖女は魔王のことを心から愛していたのだろう。けれども、だからといって立場を投げ出すことはできなかったのだ。
ユリエラの中に、聖女の言葉と行動に対する共感が芽生えた。
「ああ……魔王も聖女が真面目で責任感のある人物だとわかっていたし、その返事も予想していた。だから、二人とも一緒に過ごせる時間が残り少ないことを理解しながら共に過ごしていたんだ。けれど、それは突然終わってしまった……」
二人の関係を外部の人間が気づいてしまったのだ。
聖女は魔王に惑わされたとして彼らに糾弾され、魔王を殺すように迫られた。けれど、それを拒否した。
すると彼らは、聖女を裏切り者として殺してしまう。
「魔王はそれに怒り狂い、国を滅ぼした。これが本来の話さ」
「…………」
その話は、ユリエラにとって初めて聞く話である。けれど、どうしてか『その通りだ』と思った。
しかも、そのことに関して深く考えようとすると、どうしてだか頭にモヤがかかったかのようにうまく動かない。
「…………」
何か、言わなければ。
そう思うのに、口からはどんな言葉も出てこなかった。
「聖女は、怖かっただろうねえ。人々から責め立てられ、弁明を聞き入れてもらえず、暴行の末、殺されてしまうなんて」
エルディスの言葉に浮かんだのは多くの群衆。彼らは口々にユリエラを責めては、石を投げつけたり、棒で叩いてくる。
いくら魔王は同じ人間なのだと訴えても、彼らは耳を傾けない。
魔女め魔女めと罵られ、ついには磔にされて火を付けられ……
「あ……あ……」
ユリエラの体は恐怖に支配される。
想像上の出来事であるはずなのに、炎の熱も、自身が焼ける匂いも、そして苦しむ自分を見て笑う人々の顔も、鮮明に浮かんでしまうのだ。
(熱い、あつい……やめて、ゆるして……ころさないで……)
気を失いかけたその時、手をエルディスが握った。
「大丈夫だよ……僕がいる」
顔を上げればエルディスが優しく微笑んでいる。
それをみて、ユリエラは安心感を覚えた。
「そうね……私には、あなたがいる」
無意識のうちにこぼれた言葉にエルディスは笑みを深める。
彼が喜んでくれているのをみると、ユリエラも嬉しくて口元が緩んだ。
「ねえ、今度こそ最後まで一緒にいよう。彼らは君を突き放し、神も君を助けなかった。だから、次は僕は選んで欲しい」
彼が何を言っているのかよくわからない。わからないけれど、気づけばユリエラは頷いていた。
「ええ、もちろんよ……」
「よかった。ありがとう」
ユリエラは幸せだった。
だって、好きな人が幸せそうに微笑むから。そしてその微笑みが自分に向けられているから。
なんだかとても夢見心地であった。
だから、彼の影が一瞬人ではないものの形になったことなんて、ちっとも気づかない。
「ここまでで大丈夫?」
「うん、ありがとう」
日が沈みかける中、ユリエラはエルディスに家まで送ってもらっていた。
喫茶店での出来事は、ぼんやりとしか思い出せない。
途中までは鮮明なのに、あの聖女の話を聞いた時から不明瞭なのだ。
気づけば彼と一緒にお店を出ていて、空は茜色になっていた。
隣にいるエルディスに聞けばわかるかもしれないが、さっきまで一体何の話をしていたのか、なんて聞けずここまで来てしまったのだ。
(でも、そろそろちゃんと聞いたほうがいいよね……)
「あ、あのね、エルディスくん」
思い切って話しかけると、彼は「どうしたの?」と聞いてくる。
「えっと……喫茶店でした話なんだけど……」
「ん? ああ、来月は何を観に行こうかって話だったよね? 何か問題があった?」
「う、ううん……なんでもない」
(え? 来月? もう来月に行く約束してたの? なんでそんな大事なこと、忘れちゃったの?)
このまま忘れていたら、エルディスから呆れられていたかもしれない。
危なかったと内心冷や汗をかく。
「それじゃあ、また明日」
「うん、またね」
自宅前でエルディスに別れを告げる。
けれど扉を閉める直前、あることを思い出した。
(そういえば私、エルディス君の学年もクラスも知らないな)
最初に聞きそびれてから、何度か会っていくうちに気にしなくなっていたのだが、そのことを思い出すと気になって仕方がなくなる。
問いかけようにも、彼はもう扉の向こう側。
いまからまた扉を開けて聞きに行くにも、なんだか具合が悪い。
(まあ、次会った時に聞けばいいか……)
緊急を要するような内容でもないし、明日にでも会えるだろう。
そう思ってユリエラは、自室に戻って休むことにしたのだ。
暗くなる町中を、エルディスが歩いていく。
どんどんと町の外れに向かうに連れ、人の姿は少なくなり、やがて周囲には彼一人しかいなくなってしまった。
けれども、それでもエルディスは歩みを止めない。
やがて行き着いたのは大きくも廃れた屋敷。
かつては権威ある誰かが住んでいただろうが、今はその頃の面影もなく、寂しくもおどろおどろしい。
そんな屋敷の敷地内に、エルディスはなんの躊躇いもなしに足を踏み入れる。
扉を固く閉ざしていたはずの鎖はリボンを解くように外れ、彼を招き入れた。
「おかえりなさいませ、エルディス様」
中で彼を待っていたのは、山羊の頭部を持った燕尾服の男。
「ああ、ただいま」
明らかに異形の男に対し、エルディスは驚くでも怖がるでもなく、自然体で微笑んだ。
彼がユリエラに話した魔王と聖女の話。
あれには続きがある。
聖女を殺した国を滅ぼした後、後世では勇者によって倒されたとあるがあれは創作。
魔王は、その後も生きていた。ただし、聖女の魂がまたこの世に生まれるまでの間、自ら封印を施して眠りについていたのだ。
ここまで言えば、もうおわかりだろう。
そう、このエルディスこそが、魔王その人。
心の底から愛した女が産声をあげたのを感じ取り、目を覚ました闇の眷属にして人類の敵。
人の少年の姿から異形の姿へと変え、エルディスは自室のソファに座った。
テーブルの上に置かれた鏡に手を伸ばし、魔力を注ぎ込むとそこにはユリエラの姿が映し出される。
それを、エルディスは優しげな眼差しで見つめる。
「……本当に、変わっていなかったなあ」
懐かしげに呟いて、エルディスは初めて彼女と会った日のことを思い返す。
彼女は内気でおとなしい少女だった。
人前に立つことなんて苦手だっただろうに、それでも聖女としての務めを果たそうと頑張っていた。
(ああ、それなのに……)
彼女の意思を尊重したかった。彼女の気持ちを大切にしたかった。
その結果があれだ。
だから、もう間違えない。
「今度こそ、ずっと一緒だ……」
世界は救われない。救わせない。
なぜなら聖女は目覚めず、闇の眷属として生きてもらうからだ。
そのためにもあらゆる手段を使おう。
彼女が受け入れてくれるのなら、どんなことでもしてみせる。
そして……
「今度こそ、幸せになろう……」
それが、この世界に対する復讐である。