異世界の治癒と摂理
# EP.34 異世界の治癒と摂理
市場の端、薬草屋の横で、老人が座っていた。
左の手首から前腕にかけて、布が巻かれている。布は乾いているが、縁から薄い茶色が滲んでいる。血ではない。膿だ。ミサの鼻先に、微かな酸っぱい匂いが届いた。
老人は誰も見ていないかのように、ただ座っている。膝の上に右手を置き、目を閉じている。待っているのだ。誰かが来るのを、あるいは来ないことを覚悟して。
「あの——」
ミサが声をかけたとき、衛兵が一人、歩み寄った。銀の胸当てが午後の光を受けて白く輝く。彼は老人の手首を一瞥し、布の縁を指で押さえた。
「まだか」
「……三週間になります」
「神の意です」
衛兵は言った。断言でもなく、説明でもない。事実を告げる調子だった。「神の意です」という言葉が、この世界では「もうどうにもならない」「待てば治る」「それが自然だ」のすべてを含む。ミサはそれを、三日前に初めて聞いたときから、まだ消化しきれていない。
老人は何も言わなかった。目を開けもしない。ただ、息を吸って、吐いて。布の下で指先が微かに動いた。痛みがある。けれど、それは「神の意」の一部だ。文句を言う資格は、おそらくない。
「……三週間」
ミサは呟いた。声に出して確認する。自分の耳で聞かないと、この数字が現実なのか夢なのか、判断が付かない。
異世界小説を読んだとき、治癒魔法は一瞬だった。手を当てて、光って、傷が消える。それだけだ。けれどここでは、布を巻く。薬草を塗る。三日で変色し、七日で膿が出る。三週間で「まだか」と聞かれ、「神の意です」と返される。
魔法がある。加護がある。神殿がある。
なのに、老人は座っている。
*
王宮の部屋に戻ると、エレノアが既に机にいた。
午後の光が窓枠から斜めに差し込み、羊皮紙の上に淡い金色の帯を落としている。エレノアの金髪はその光の中で、輪郭だけが白く浮かび上がっていた。彼女は一枚の古い記録——王立医療院の診療台帳のコピーらしきもの——を読み込んでいた。
ミサが入ってきたのに気づかず、指先で羊皮紙の行をなぞっている。一度。二度。三度。同じ行を、もう一度。
「殿下」
エレノアが顔を上げた。表情は変わらない。けれど、目の奥に、何かが積もっているのが分かった。
「市場で」ミサは向かいの椅子に腰を下ろし、鞄からメモ代わりの羊皮紙の切れ端を取り出した。「手首の傷。三週間。衛兵が『神の意です』と言った」
エレノアは何も言わなかった。指先が羊皮紙の縁を離れ、テーブルの上に置かれた。掌を上に向けて、しばらくそのままでいた。それから、ゆっくりと裏返した。
「台帳には」エレノアの声は低く、均一だった。「この週、南区の診療所へ搬送された手首の傷が十一件。うち九件が三週間以上経過している。二件が感染確認」
「……九件」
「はい」
ミサは羊皮紙の切れ端に、先ほど市場で見た老人の姿を書き込んだ。正確には書けない。座っている姿。閉じた目。動いた指先。それだけだ。けれど、その三行が、この世界の「治す」という言葉の重さを表している気がした。
「殿下」ミサは言った。「私の世界では、『治す』は医学の領域です。傷を縫う。感染を防ぐ。薬を出す。時間がかかることはある。でも、それは『神の意』じゃなくて——」
言葉を切った。
ここで言えば、異世界の常識を否定することになる。この世界の人々にとって、「三週間で治らないのは当然」が前提だ。それを「当然じゃない」と言うのは、彼らの時間を否定するのと同じだ。
エレノアは待っていた。急かさない。指先がテーブルの上で小さく動いているだけだった。
「——つまり、ここでは『治す』の意味そのものが、私の知っているのと違う」ミサの声が、少しずつ硬くなる。「傷が消えることじゃなくて、『時間が経つこと』になっている。三週間。二ヶ月。感染すれば別の薬草。加護があれば早いかというと、そうでもない」
一拍。
「あるいは」エレノアが言った。声は変わらない。けれど、言葉の順番が変わった。「この世界では、『治す』が初めからそう定義されている。時間がかかるものと。初めから」
「……どちらかだと、思います」
ミサの声が震えた。自分でそれを聞いた。昨日までの「多分」「気がする」がない。「思います」。まだ確証はない。けれど、市場で老人の唇を見たとき、衛兵の「神の意です」を聞いたとき、その二つの曖昧な言葉は、もう使えなかった。
エレノアは長く目を閉じた。窓の外では、雷鳴の塔が青白い光を明滅させていた。規則正しく。心拍のように。ミサも同時に窓を見た。
一拍。二拍。三拍——
四拍目が、少し遅い。
半拍だけ。けれど、確かに。
ミサの指先が、羊皮紙の上で止まった。
「殿下」
「……見たか」
エレノアは目を開けていなかった。けれど、声の方向が変わっていた。窓の方を向いている。
二人は同時に塔を見た。青白い光柱が、規則正しく明滅している。心拍のように。止まる気配はない。
一拍。二拍。三拍——遅れ。四拍。五拍。六拍——遅れ。
七拍目の間隔が、少し広い。八拍目が少し早すぎる。九拍目は——
「……おかしい」ミサの声が、どこか遠かった。「心拍じゃない。規則的じゃなくなっている」
エレノアは窓から目を離さなかった。指先がテーブルの上で、もう一度裏返る。掌を上に向けて。何も持たないまま。
「我々はそう教えられる」
声は低い。普段の柔らかさがない。王女としての声ではなく、一人の人間として、何かを思い出そうとしている声だった。
「世界の摂理だと。言葉が現実を決めると。加護は神からの贈り物で、治癒には時間が必要で、それは——」
言葉を切った。
「——それが真実なのか?」
問いだった。エレノア自身の問い。ミサへの問いではない。自分自身に突きつけている。王女として教わってきたことを、指先で羊皮紙の縁をなぞるたびに、少しだけずれていくものを、今ここで確認しようとしている。
「塔の光」ミサが言った。「規則的だったはずなのに——」
「今日からじゃない」エレノアは窓を見たまま続けた。「三日前。北区の診療所が二時間停止したとき。魔力回路の冷却音が——一回。二回。三回。そのあと、塔の明滅の間隔が、半拍だけ広がっていた」
ミサは息を止めた。
「記録があるんですか」
「ない」エレノアは言った。「神官の報告書には『魔力の変動により一時的な遅延があった』とあるだけだ。半拍。三日前。それだけが、私の——」
言葉を切った。指先がテーブルの上で止まった。
「——私の中で、残っている」
窓の外では、塔の光がまだ明滅している。けれど、もう心拍ではない。一拍。二拍。三拍。四拍——間。五拍。六拍。七拍——遅れ。八拍。九拍。十拍——
規則性が崩れている。崩壊していない。けれど、何かがずれている。この世界の「当たり前」が、半拍だけ、外れている。
ミサはスマートフォンをポケットから取り出そうとして、止めた。画面は消えている。先ほどから一度も触っていない。指先が勝手に蓋を開けそうで、怖かった。まだ、見せられない。見せる前に、自分が理解していないことを、エレノアに見せることはできない。
代わりに、ミサは羊皮紙の切れ端に、塔の明滅の間隔を書き込んだ。一拍ごとに「×」を付ける。遅れたところに「○」。広すぎたところに「△」。
三行。五列。まだ意味はない。けれど、記録になる。誰かが、後でこの間隔を見たとき、「おかしい」と言う根拠になる。
「殿下」ミサは言った。「塔の光の異常は、世界の摂理に何か変化が生じていることを示しているかもしれません」
エレノアは窓から目を離し、ミサを見つめた。長い沈黙。羊皮紙の上で指が止まっている。掌を上に向けて。何も持たないまま。
「……可能性だ」エレノアが言った。「確証ではない」
「はい。確証じゃないです」
「だが」
一拍。
「——だが、三日前の半拍と、今日の三秒は、同じ方向を指している」
エレノアの声が、少しだけ震えた。王女としてではなく、人間として。教わってきたものを、今、自分の手で確認しようとしている人間の声だった。
窓の外で、塔の光がまた明滅した。一拍。二拍。三拍——間。四拍。五拍。六拍——遅れ。七拍。八拍——
規則的ではなくなっている。けれど、消えてもいない。止まってもいない。ただ、ずれている。この世界の「当たり前」が、半拍だけ、あるいは一秒だけ、外れている。
ミサは羊皮紙の切れ端を折りたたみ、鞄に入れた。三行の記録。塔の間隔。老人の手首。衛兵の声。「神の意です」。
全部、同じことを指している気がする。確証はない。けれど、昨日までの「たぶん一致してる。多分」からは、もう戻れない。
「殿下」ミサは立ち上がった。椅子が床を鳴らす。
「はい」
「来週、北区の診療所に行きましょう。三週間以上経過している九件の中に、まだ布を巻いている人がいるなら——」
「同行する」
エレノアは言った。迷いがない。けれど、声の奥に、何かが積もっているのが分かった。王女としてではなく、一人の人間として、「分からない」と認めることへの、小さな抵抗と、それでも進む決意が、同時にあった。
窓の外では、塔の光が明滅を続けていた。規則正しくはない。けれど、まだ消えていない。
ミサは部屋を出る前に、もう一度窓を見た。青白い光柱が、午後の空に浮かんでいる。一拍。二拍。三拍——間。四拍。五拍。六拍——
半拍。
また、半拍だけ、遅い。
*
夕暮れ前だった。王宮の廊下を歩くエレノアの後ろで、ミサは鞄の中の羊皮紙の切れ端に指先を当てていた。三行の記録が、革の底に当たって微かに硬さを感じさせる。
「ミサ」
エレノアが振り返らないまま言った。声は廊下の石畳に吸われて、少しだけ遠い。
「何?」
「——我々はそう教えられる。世界の摂理だと」
一拍。
「だが、それが真実なのか」
問いだった。ミサへの問いではない。エレノア自身の問いを、もう一度、声に出して確認している。王女として教わってきたことを、一人の人間として、今ここで、まだ手放せていないことを。
ミサは答えることができなかった。答えを持っていない。持っているのは、三行の記録と、半拍だけ遅れた光の間隔と、市場で座っていた老人の動いた指先だけだ。
「……分かります」ミサは言った。「真実が何なのか、まだ分かりません。でも——」
振り返らずに歩きながら、エレノアが小さく息を吐いた。それだけが、肯定でも否定でもない応答だった。
廊下の窓から、塔の光が見えた。青白い明滅が、夕暮れの空に溶けていく。規則正しくはない。けれど、まだそこにある。消えていない。止まっていない。ただ、ずれている。
ミサは歩き続けた。鞄の中の羊皮紙が、革の底で微かに硬さを感じさせる。三行の記録。塔の間隔。老人の手首。「神の意です」。
全部、まだ答えになっていない。けれど、問いになっている。
それは十分だった。今日までは「気がする」だったものが、「思います」になった。その一歩が、明日への足場になる。確証ではない。けれど、足元にある。
塔の光が、また明滅した。一拍。二拍。三拍——間。四拍。五拍。六拍——遅れ。七拍。八拍——
半拍だけ、外れている世界を背に、ミサは王宮の深部へ歩いていった。




