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異世界の言葉が壊れている ~女子高生ミサは、失われた世界の常識を取り戻す~  作者: 伝説の男前


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治すということ

# 第十六話 治すということ


午前。王宮東翼の部屋。


ミサは机に座り、羊皮紙を前にしていた。三枚が並んでいる。一番上の一枚には、昨夜書き留めた三行がある。


『治す=傷が消える(本来)/時間がかかる(現在)』

『加護=誰かの選択(本来)/推薦と寄付(現在)』

『魔法=コスト以上の何か(未確認)』


三行目の「何か」が、まだ埋まっていない。筆先で凹みをつけた痕跡だけが、羊皮紙の表面に残っている。ミサは指先でその凹みをなぞった。ざらついた感触。インクが乾いて、少しだけ固まっている。


(……何かが足りない)


昨日のバルトの説明を思い出した。灰色の長衣、事務的な巻物の広げ方、感情の色がほとんどない声。


「ただし、魔法を維持するには魔力の供給と装置の保守が必要だ。そのコストを支払えない者は、手作業でやる」


その言葉が、まだ耳に残っている。「それが世の常です」。感情のない事実の伝達。けれど、その一言が羊皮紙の上で重く沈んだことを、ミサは忘れない。


(今日は、抽象論じゃない)


ミサは筆を置いた。三行目の「コスト以上の何か」はまだ埋まらない。けれど、一行目——『治す』——は違う。昨日のバルトの話では、ポーションは補助的だと聞いた。擦り傷三日。骨折二週間。感染すれば別の薬草。つまり、経過観察が必要だ。つまり、時間がかかる。


けれど、「時間がかかる」ことと「治した」という言葉の間に、何かがある。異世界小説では、回復魔法が光を放つと、血飛沫が引いて、傷が消える。一瞬で。ここでは、三日。二週間。その「間」に何が起こっているのか。


(一人の、具体的な、体のことを調べよう)


ミサは窓の外を見た。石畳の道に馬車が一台走っている。煙突から黒い煙。遠く——かなり遠くに見えるが——塔のてっぺんに青白い光が脈動している。規則正しい間隔で。心拍のように。


(……変わらない)


その「変わらない」が、妙に重かった。昨日もそう思った。一昨日も。けれど今日は、「変わらない」を前提にして、その中にある「少しだけ違う」を調べに行く。


ノックの音がした。三回。一定の間隔で。


「どうぞ」


扉が開いた。エレノア・アルヴェインが、護衛二人を引き連れて立っていた。金髪の髪が、窓から差し込む午前の光を受けて淡く浮かんでいる。表情は変わらない。けれど、昨日とは違う。昨日の「だが……」の先にあったものが、今日は別の形で出てくるのだと、ミサは直感していた。


「ミサ」王女は言った。「治癒院への通行許可書だ」


小さな羊皮紙の切れ端を差し出す。印が押してある。護衛の一人——痩せた男——が後方三步に控えている。もう一人は扉の外にいるらしい。


「三日前に火傷の治療を受けた患者の経過記録を、閲覧できる権限だ」エレノアが続けた。「ただし、神官の前で無礼をしてはいけない」


「分かってる」ミサはうなずいた。「ありがとう、殿下」


エレノアは少しだけ目を細めた。護衛が振り返り、ミサと王女を先導した。廊下の石畳の上で、靴の音が規則正しく響く。塔の青白い光が、窓の外で明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。五拍。


心拍のように。止まる気配はない。


*


王都・治癒院。


神殿の附属施設という札が、入口の木枠に吊ってある。白い布が窓辺に掛かり、薬草の香りが廊下を漂っている。待合室には七、八人の患者が、長い木製ベンチに座っている。古い男が足を組み、腕を組んで壁を見ている。若い母親が赤ん坊を抱いて、天井をぼんやりと見上げている。もう一人の女——二十代後半くらい——は膝の上に両手を置き、指先で爪をかみ砕いているように見える。


受付は石造りのカウンターだ。神官が二人在席している。ミサは通行許可書を差し出し、「三日前に火傷の治療を受けた患者」の名前を尋ねた。神官は棚から羊皮紙の巻物を取り出す。数本見せて、一つを選び出した。


「こちらだ」


記録室——というにはあまりに狭い隅——で、ミサは巻物を広げた。インクが少し滲んでいる。文字は整っている。事務的だ。


『第三日:創部閉鎖。疼痛閾値以下。経過観察継続』


ミサの指先が、その行の上で止まった。


創部閉鎖。傷口が塞がった。痛みが——閾値以下。つまり、感じない程度に下がった。そして、経過観察継続。まだ、終わりではない。


(……これって)


ミサは振り返り、受付の神官を見た。四十代くらい。無地の白い長衣。胸元に小さな紋章。表情は穏やかだが、事務的だ。


「あの——」ミサが尋ねた。「つまり完治?」


一拍の沈黙。神官は巻物を閉じ、ミサを見て言った。


「治しました」


即答だった。迷いがない。事実を伝えているだけだ。バルトの声と似ている。感情のない確認。


「……ありがとうございます」


ミサがそう言うと、隣にいた女——二十代後半。待合室で爪をかみ砕いていた女——が口を開いた。


「あの、すみません」


声は少し震えている。けれど、はっきりしている。


「三日目で『終わった』って言われたけど」女は続けた。「まだ夜に熱が上がるし、指先が硬い」


神官の表情が、わずかに動いた。


「……それは後遺です」声が少しだけ硬くなった。「治した上での残存現象です」


「残存現象って——」


「治療は完了しています」神官は繰り返した。「その後の身体の応答は、我々の管轄外です」


女は何も言わなかった。指先で爪をかみ砕くのを、やめた。代わりに、膝の上の両手を握りしめた。


ミサは羊皮紙——自分のもの——に筆を走らせた。大きく、はっきりと。


『治す=創部が閉じ、痛みが閾値以下(この世界の定義)』

『治す=傷が消え、機能に戻る(本来)』


二行の間に、隙間がある。異世界小説では、回復魔法が光を放つと、血飛沫が引いて、指先が動いて、熱が下がって、一瞬で「完了」になる。ここでは、創部は閉じた。痛みは閾値以下に落ちた。けれど、夜に熱が上がる。指先が硬い。「機能に戻る」には、まだなっていない。


(……つまり)


ミサは筆を止めた。三方を見渡す。神官の「治しました」。女の「まだ熱が上がる」。そして、羊皮紙の上の二行の隙間。その隙間に何かがある。言葉の意味の、欠けた部分。


*


「すみません」ミサが言った。声は落ち着いている。「一つだけ——」


神官は巻物を棚に戻し、振り返った。


「つまり、この世界では『治す』は、『元に戻す』じゃなくて——」ミサはゆっくりと言った。「『許容範囲に落とす』って意味だよね?」


一拍。二拍。三拍。


神官の表情が、わずかに固くなった。眉間に、細かい皺が寄る。けれど、すぐに消えた。


「……そう理解されても仕方がないが」


声は低い。事務的ではなくなっている。


「『治す』という語に——」神官は言葉を切った。「本来の意味——がそもそも存在したのかどうか、我々は確認したことがない」


ミサの指先が、羊皮紙の上で震えた。


確認したことがない。


その五文字が、胸の奥で重く沈んだ。異世界小説では、回復魔法の定義が最初からある。「光を放つ。傷を消す。痛みを取り除く」。それが前提だ。ここでは——前提がない。いや、前提があるふりをして、その存在自体を確認したことがない。


誰が。いつ。何のために。確認しなかったのか。


ミサは筆を拾い直した。インクが少し固まっている。指先でなぞって溶かす。三行目の「コスト以上の何か」の上——いや、正確にはその横に——小さく書き足した。


『……確認されなかった』


窓の外で、塔の青白い光が明滅した。一拍。二拍。三拍。四拍——半拍の遅れ。五拍。


ミサは目を凝らした。気のせいかもしれない。昨日もそう思った。一昨日も。けれど、羊皮紙に書けば、消えない。その「半拍」を、今この瞬間にもう一度見た。確かに。消えない。


(……塔の、あの遅れ)


心の中で、言葉が繋がった。まだ確信ではない。けれど——『治す』の確認されなかった原義と、塔の四拍目の半拍の遅れ。その二つに、何かが通じている気がする。気のせいかもしれない。けれど、羊皮紙に書けば、消えない。


*


王宮東翼の部屋。午後。


ミサはエレノアの前で、羊皮紙を差し出した。三行が並んでいる。そして、三行目の横に小さく書き足された五文字。『確認されなかった』。


エレノアは長い沈黙の後、言った。


「……後遺」


言葉を繰り返した。女の声を真似しているのではない。咀嚼している。「治した上での残存現象」。その言葉の重さを、自分の言葉で確かめている。


「我々は、それが世界の摂理だと教えられる」エレノアは続けた。声は落ち着いている。昨日と同じ文だ。けれど——今日、そのあとに続くものがある。


「……誰が、と」


声が、少しだけ低くなった。前までの「落ち着いている」ではない。「少しだけ低い」。探しているのだ。答えを、まだ探している。けれど、今日は「だが」で止まらずに、「誰が」と続けた。教えられる側の疑問を、初めて自分の言葉で出した。


ミサはうなずいた。そして、言った。


「誰がと、確認しなかったのか。誰がと、選んだのか」ミサの声は落ち着いている。けれど、指先が羊皮紙の縁をなぞっている。「その『誰』が——」


窓の外を向いた。塔の青白い光。一拍。二拍。三拍。四拍。半拍。五拍。


「——塔の四拍目の遅れと関係しているんじゃないかって、思うんです」


エレノアは答えない。ただ、窓の外を指す。塔の光。一拍。二拍。三拍。四拍。半拍。消えない。


二人で見た。同じ間隔。同じ遅れ。半拍。確かに。羊皮紙に書けば、消えない。


沈黙が落ちた。石造りの部屋の中で、塔の明滅だけが規則正しく続いている。心拍のように。けれど、四拍目が少しだけ遅い。いつもと違う。あるいは——気のせいではない。今日は、そう思っている。


*


夜になった。


王宮東翼の部屋は、また暗い。窓の外では、王都の灯りが数百点光っている。馬車の音。誰かの笑い声。遠くで鐘が鳴る。塔の青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。四拍目。半拍の遅れ。確かに。消えない。


ミサは枕元にスマートフォンを置いた。冷たい。電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。画面の隅——左下、フレームとガラスの境目——に、小さな黒い点がある。昨日からあるものだ。一週間前からあるものかもしれない。けれど今、暗い部屋の中で見ていると、その点が微かに光を帯びている気がする。


指先を近づけた。触れずに。ただ、見ているだけだった。


触れた瞬間には、またただの黒い点に戻る。昨日もそうだった。一昨日も。けれど今日は、触れなかった。ただ、見ていた。


(……まだ、違う)


その言葉が、胸の奥から浮かび上がった。自分の記憶のものなのか、この世界のものなのか、区別がつかない。けれど、「確認されなかった」という神官の声と、塔の四拍目の半拍の遅れが、その「違う」の中にある。


窓の外では、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍——七拍。八拍。規則正しい。けれど、四拍目が少しだけ遅い。いつもと違う。あるいは——気のせいではない。


ミサは目を閉じた。瞼の裏側で、塔の明滅が続いている。半拍の遅れが、心臓の拍動に重なる。


(誰が、確認しなかったのか)


答えはない。まだ、ない。けれど、問いは羊皮紙の上にある。消えない。


一週間。残り——数日だ。衛兵の声が昨日も廊下で聞こえた。「陛下のお命で、一週間だけ滞在許可が出たのだ」。その言葉が、まだ耳に残っている。


ミサはスマートフォンを掌に載せたまま、暗い画面を見つめた。左下の黒い点。触れずに。ただ、見ている。


(……まだ、違う)


呟いた。声は、自分でも驚くほど小さかった。


窓の外では、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。止まる気配はない。

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