さよならとお姫さま
エリザベスと庭内で会ってからというものモグラ姫は楽しみにしていたサイラスの手紙に返事を書くこと無く、公務へと没頭して行きました。彼女から笑顔が消え、精彩の欠いた返事が増えてくると比例するよう、ヒースローの苛立ちも増してきました。
仕事に関しては粗が見つからない程完璧です。それもその筈、モグラ姫は再三アンから注意を受けても自室に戻ろうとせず、また食事もそこそこに文字ばかりへ目をやっているのですから。
文句のつけどころのない状態にますますヒースローのフラストレーションが溜まっていき、どうにか彼女の目を他に向けさせることが出来ないかと考えるのでした。
そんな彼の考えと相反するように、ますますモグラ姫はうちに篭り表情を無くして行きました。彼女は目の前のこと以外考えようとはしませんでした。サイラスやエリザベスのことが頭によぎる度、身も焦がれそうな嫉妬と諦念、そして悲しみとが一遍にやってくるのです。到底処理できない事柄を彼女の心は拒否しました。彼らに関する全てを忘れるように努めたのです。
悲しみの記憶だけで無く、サイラスから貰った幸福やモグラ姫自身の恋情も。唇から全身を駆け巡るような熱を感じた接吻や安堵を覚えた彼の腕の中すらも。
時間とは恐ろしくも優しいもので、モグラ姫は繁忙期を終え社交シーズンが始まっても、夜会やパーティの誘いを全て断り書庫内に篭っておりました。
アンの小言にも耳を傾けず、まるで半年前に戻ったように人を避ける生活。けれどもそのお陰でモグラ姫も少しばかり気力を取り戻しました。
彼女の様子に未だヒースローも腹を立てておりましたが以前のような皮肉を言えずにいました。持ち直してきたとは言え、気軽に触れてしまったら壊れてしまいそうな危うい雰囲気が彼女からまとわり付いて離れないのでした。モグラ姫は決して儚い容貌ではありません。
にも関わらず焦げ茶の瞳はビー玉のように透明で、一見感情を映していない風に見えましたが奥底に暗い色がゆらゆらと揺らめいており、繊細な硝子のようでした。
彼は何故自分が気を使わなければならないのかと憤りを感じましたが、彼女の瞳を、姿を目にしてしまうと膨らんだ怒りが霧消してしまうのでした。ヒースローはどうすれば彼女を以前のように戻せるか、皮肉交じりの笑みでもいいからこちらに笑って見せてくれないかと日々考えるようになります。馬鹿げた考えかもしれませんが、モグラ姫が笑えば、彼の抱えている有耶無耶も溶けていくのではないかと思ったのです。
ある夏の終わりの日です。書庫の執務室には手持ち無沙汰に、本を弄びながら出窓のヘリに座り込んでいるモグラ姫が居ました。今宵はバスラ侯爵の屋敷で夜会が開かれるということで、
ヒースローは仕事もそこそこに部屋を出て行きました。
アンには夕食まで一人にして欲しいと命じ、モグラ姫はだらしなく窓にもたれ込み西に傾いていく太陽を見ていました。
オレンジ色の光はいつ眺めても、やはり変わり無い美しさを持っています。少しだけ開けたガラス戸からは秋混じりの風がそよそよと吹き込んで、重たいカーテンを揺らして行きました。
彼女は何をするというわけでも無く、ただ夜の時間を待ち遠しく思っていました。元々モグラ姫は穴倉生活を長く続けていた女です。青い空や地上の太陽、草の匂いなんかとは遠くかけ離れていたところで生きていたはずなのです。
それが独り善がりの妬みや嫉みで太陽を遠ざけていたと言われても、実際何年間も彼女は穴倉という環境下で生きてきたのです。
それがどうでしょう。サイラスに心を寄せてからというものの、彼女はすっかり地上に魅せられ陽の下に焦がれ、妬みつつも愛していました。まるで幼いアイリスに戻ったように、彼女は些細な事柄で幸福を感じられるようになっていました。
けれども、近すぎる光はずっと陽を避けていたモグラ姫にとって薬にもなれど、摂り過ぎは毒でした。お陰で哀れ彼女は本物のモグラのごとく、もうすっかり疲れ果てて手足はだるく、後はただゆっくりと穏やかに過ごしたいと願うようになっていました。
ふと、部屋のドアの開く気配がしました。きっとアンでしょう。モグラ姫は顔も向けず、ただ声だけを投げかけます。
「アン、もう夕食なの」
返事がありません。訝しみながら、けれども億劫気に後ろを振り向きます。するとどうでしょう、予想だにしない男の姿が目の前に立っているではありませんか。モグラ姫はすっかり無くしていた感情の色を少し浮かべ、男に目を向けました。
「お久しぶりね。ごめんなさい、忙しかったものだからすっかり手紙を書けていなかったの。随分と立派な服装ね、今宵はどこかの侯爵の屋敷で夜会があると聞いたわ。あなたも行くの」
「お久しぶりです。アイリス様。社交シーズンが始まって暫く経ったのにも関わらず、あなたの部署はまだ忙しいのかな。王妃様がお嘆きになられていましたよ。また社交に出なくなってしまったと。何かありましたか」
「いいえ。何にもないわ。ただ億劫だっただけ。それよりも護衛が良く通したわね。何か火急の用件がありました。アンには一人になりたいと言ってあったの。あなたも何も無いのであればお帰りになって。また、機会があれば王家のパーティで会いましょう」
「数ヶ月、お互い忙しく会えずじまい。手紙も何故か途切れてしまった恋人に会いに来てはいけませんか」
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「いいえ。でも、あなたには私よりも相応しい方がいらっしゃる筈だわ。誤解を招く事はするべきではない。そうでしょう」
「何のことか理解できませんね。僕にはあなた以外の恋人を持っていない筈だ」
「ねえサイラス。私、好きな人が出来たのよ。あなたに会えない間、彼は公私に渡って支えてくれたわ。私も女だったの。その程度の薄情な人間だった。だからあなたなんかもう好きじゃない。でも、感謝してるわ。私だって恋ができるということ、解ったから」
モグラ姫は穏やかな口調で、サイラスへ真っ赤な嘘を真実の様に語りました。このまま彼の側にいればありのままをぶちまけて、涙を流し縋ってしまうでしょう。
けれども今回のサイラスの相手はエリザベスです。家格も容姿も釣り合っているどこから見てもお似合いな二人でした。きっとサイラスなら彼女の性格でも上手いことやっていけることでしょう。
モグラ姫は、自身の理性を最大限に活用してとびきりの笑顔を浮かべました。
「それは、お別れということでしょうか」
「ごめんなさい。ありがとう。短い間だったけれど、本当に幸せだったわ」
「結局僕の一人相撲だったということでしょうか。いきなり押しかけてしまいすみませんでした。幸せになって下さいね、僕のお姫様」
サイラスの表情は柔らかでしたが新緑の瞳は夕陽が映り、燃えている様でした。彼はゆっくりと背を向け扉の方へと向かって行きます。モグラ姫は先程の彼の声音を反芻し、ある重大な勘違いをしているのではないかということに気付いたのです。
彼の先程の表情は初めて見たもののはずなのに、ある記憶の王子様と酷くに通っていました。震える声で彼女は彼を呼び止めます。
「ねえ、ちょっと待って。サイラス、あなたって。あなたがあの時のイスカ王子だったの」
「鈍い人だなあ。だから、僕はあなたにずっと恋をしてきたと言ったでしょう。あなたがモグラ姫になる前のアイリスの頃からあなたが好きでした」
「一番目も二番目も同じ人を好きになっていたのね」
「最後に気付かないでくださいよ。自惚れそうになる」
そう言うとサイラスは出口に向かっていた足を再びモグラ姫の方に向け、彼女を抱き締めました。
「やめなさいよ、私好きな人がいるって言ったじゃない」
モグラ姫が抵抗し腕を振り回すと、彼はいっそ力を込めました。
「他の男が好きならそんな表情して泣かないで下さい。あなたには振り回されてばかりだ」
サイラスはモグラ姫が大人しくなると、腕を緩め彼女の額に一つきりキスを落としました。
「さよなら、アイリス様」
展開について行けないモグラ姫は呆然とし、サイラスが再び扉に向かうのを止められませんでした。彼女は次から次へと溢れ出てくる涙をそのままに、太陽がすっかり隠れるまでその場に立ち尽くしていたのでした。




