子爵の息子とお姫さま
アンが転んで怪我をし、図らずともヒースローと二人きりになった次の日。モグラ姫は男の言葉を何度も咀嚼して一体意図は何だったのだろうと考えておりました。
言葉尻を良く良く含めば、大層おかしな愛の告白とも取れましたが彼女は基本的に言葉を前向きに捉えません。
そんなことを一瞬でも思った自信を恥じ、彼なりにモグラ姫の仕事を認めたということなのだろうと、思考を落ち着けました。もしも万が一、億が一、ヒースローが彼女に告白をしているのだとしてもすでに心の中はサイラスで占められています。訝しみを感ぜども嬉しい気持ちなど一欠片も湧かないのでしょう。
それに、次の日出勤してきたヒースローは至って通常運転でモグラ姫は思わず拍子抜けしてしまいました。だって彼の言葉をほとんど聞いていない振りをして仕事の話に話題をすげ替えたのですから。嫌味の一つもあるだろうかと構えていたのですが、杞憂に終わりました。
くだらない考えに囚われていないで、目下机に鎮座する報告書の山に取り掛からなければ。モグラ姫は密かに気合を入れペンを握りました。没頭しているうち、いつの間にか昨日のことは忘却の彼方へと去り、すっかり頭から抜け落ちていました。
本日は優秀な使用人のアンに、半ば強引に休みを取らせました。彼女はかすり傷程度で休むなどと言ってかなり渋っておりましたがモグラ姫が珍しく命令を行使し、流石のアンも引き下がる他ありませんでした。
代わりにと一人の使用人を寄越されましたが、報告書はあまり重要視されていないとは言えど機密文書。
信頼しているアンはいざ知らず、顔も思い出せないような者に触れさせることは出来ません。
モグラ姫は使用人へ午前中とお昼、そして午後にそれぞれお茶を持ってくるようにと伝え他の時間は書庫内居れば何をしていても構わないと告げました。
使用人はモグラ姫の噂を鵜呑みにしていたので、どんな無茶な命令が下されるかと内心冷や冷やしていたのですが普段の仕事よりもずっと簡単で楽な仕事に安堵し、また喜びました。
モグラ姫は一頻り自身の好みを伝えた後、仕事へと戻り一言も言葉を発さなくなりました。初めのうち、代わりの使用人も側から離れることなどあってはならないと強く思っていた彼女ですが部屋の中にいる二人の人物は何も発さず、ただただペンの音が響くばかりです。時間が経っていくにつれ、彼女は暇を感じるようになり、三時間を超えたあたりでとうとう席を外すことにしたのでした。
部屋を出るときに声かをかけましたが、モグラ姫もヒースローも文字の洪水の中に埋もれており全く気づくことがありませんでした。アンの代わりの使用人は、つくづくやはりモグラ姫は変わり者であると感じたのでした。
モグラ姫は使用人が席を外してから数時間経った後にお茶が用意されていたこと、彼女が書庫で暇を潰していることに気づきました。恐らく、何度か声もかけてくれたのでしょうが気づかぬままになっていたのでしょう。
「申し訳ないことをしたわ。愛想が悪いと言われるかしら。まあ、もうどうでもいいけれど」
そうして、カップに入った紅茶を一口飲みます。当然のことながら、既に冷え切っていて渋さが増し決して美味しいものではありません。けれどもモグラ姫は喉が渇いていたのでゴクゴクと作法を気にせず行きに飲み干しました。舌にじんとした渋さが残り、彼女は少しだけ顔を顰めました。
「そんなものを飲むくらいなら、彼女を呼んで新しいものに変えて貰えばいいんじゃないですか」
作業に集中していたと思っていたヒースローから呆れた口調で言われます。
「見ていたの。良いわ、喉が渇いているだけだし。あの子も気詰まりでしょう。コミュニケーション能力が著しく低い私とあなたと一緒にいたら肩が凝ってしまうわ」
「仮にも主人なんですから、きっちりしたほうが良いと思いますけどね。それに先程の言葉は間違いです。私は会話能力が劣っておるわけではありません。必要な場合でしたら幾らでもこの口を動かしますよ」
「そうかしら。あなたは初対面でも私の失礼な言葉を吐いたじゃない」
ペンを動かしながら、モグラ姫が相槌を打つとヒースローは書くのを止めて彼女の方を見ました。
「人間、怒りに触れることが大事らしいですよ。許容を測るためにわざとです」
「口が減らないわね。まあ初対面は最悪の印象であったということだけは言っておくわ」
「私の発言はあなたを不機嫌にするに足るものだった。もしもご令嬢の方々に同じ台詞を言ったとして、彼女らは内心では腹も立っているでしょうが表面上では決して声を荒げることをしません。それこそ婉曲的な表現を用い、言葉にするでしょう。けれどもあなたは直情的に、感情のままに従った。王族の方々は淑女の教育を受けておられないのですか」
「馬鹿にしてるわね。もちろん受けるに決まっているじゃない。姉も妹を見れば解るでしょう。いつでもにこやかにして負の感情なんて持ち合わせていないのではないかと言うくらいじゃない。けれども残念ね。引きこもりの真ん中の姫は、まどろこしい社交術が苦手なの。私にだって必要なこと位解るけれど。対抗する術としては能面顏になる位ね」
「あなたはずいぶん情緒豊かですから、その術も満足に出来ないのではないでしょうか」
「出来るわよ。夜会に出るときはいつだってそうしていたわ。無表情でいれば皆、挨拶もそこそこに話しかけないでしょうよ」
「ほう。ではいつからその仮面を被らなくなったのですか」
モグラ姫は何かを思い出し、途端ほころんだ蕾のように表情が柔らかくなりました。ヒースローは彼女の顰め面が溶けた一瞬を垣間見、胸が少しだけ痛くなりました。
「馬鹿馬鹿しくなっただけよ。とげとげしい態度を取ったって無駄だと気付いただけ。だって何をしたって見透かす人が居るから。尖っているのが阿呆らしくなったのよ」
「今でも、充分随分とんがっているかと思いますけどね」
「良いのよ。あなたにはそれで。仕事に差し支えがなければ親しくしようとなんて思っていないもの」
「そうですか」
そこで会話は打ち切りとなり、再びペンが紙の上を走る音だけが響くようになりました。ヒースローはどこか心にもやがかかったようにすっきりしませんでした。モグラ姫の柔らかな表情を引き出すのは、この場に居ない男である事実が彼を苛立たせました。
いつもならば文書を前にすれば自ずと他のことは消えてゆくのに、つっかえがあるように引っかかりました。ヒースローが興味を持っているのはモグラ姫という人間としてです。興味対象に浮かべられた常とは異なる表情は寧ろ歓迎すべきもののはずでした。けれども実際の彼の胸中は芳しくありません。ミイラ取りがミイラになる、頭にそんな言葉が過ぎって直ぐに打ち消そうとします。彼には彼の目的を完遂しなければならないという信念がありました。それでも、感情は言うことを聞いてくれずやるせない気分が心に染みのように広がっていくのでした。




